ワザリング・ハイツ ~本館~

Something childish, but very natural.

『キャスリーン・レイン詩選集』を読む

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Who am I, who
Speaks from the dust,
Who looks from the clay?

 

Who hears
For the mute stone,
For fragile water feels
With finger and bone? ("Self")

 

私はだれなのだろう、こうして

塵から語り、

土から見るこの私は?

 

沈黙する石に代わって、

はかない水に代わって

指と骨で感じるこの私は?

キャスリーン・レインについてはなにか書いておこうとずっと思いつづけて今日まできてしまった。はじめて彼女の名前を聞いたのは修士の頃だったので、もう10年も前のことである。エミリー・ブロンテの詩を扱うにあたって、このスコットランドの詩人キャスリーン・レインについて書かれた論考を「役に立ちそうな書きもの」として先生から手渡された。これは役に立つどころかとんでもなくおもしろい論考で、そこに引用されたレインの詩を何度もくり返し読み、すぐにSelected Poemsを買って読みはじめた。それから10年が経ち、その記事の掲載された雑誌で自分が書いているというのは、なかなかに感慨深い偶然だと感じる。

kandliterature.hateblo.jp冒頭に引用した詩のように、レインは自然を通して自己を見つめる詩人であった。レインの詩は花や草木、水、川、空、あるいは石や岩といった、私たちをとり巻くむきだしの自然に溢れており、それらが詩人の身体のなかを自由に出入りしているような印象を与える。自然と自己の一体化とか、自然に自己を映すであるとか、表面的なありふれた観点でとらえるには、レインの提示する自然のイメージはあまりにも多彩にすぎる。かつてパステルナークが書いたように「創造の目的は――自己を捧げること*」であり、レインは詩を通して自然に自己を捧げようとする。その身は自然、あるいは万物と渾然一体となって、からみあい、ともに生と死をくり返し経験しながら次々と変転してゆく。*パステルナーク詩集』(双書・20世紀の詩人)工藤正広訳

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Seas, trees and voices cry
'Nature is your nature.'

 

I reply
'I am what is not what it was.'
Seas, trees, and bird, alas!
Sea, tree, and bird was I. ("Lyric")

 

海や木々、声は告げる

「自然はあなたそのもの」だと。

 

私は応える

「今の私は過去の私とはちがうものだ。

海よ、木々よ、そして鳥よ!

私はかつて海であり、木々であり、鳥であったのだ。」

「自然はあなたそのもの(あなたの性質)」そのものであり、「私はかつてあったものとはちがったもの」へと変わり、絶えず変転をくり返す。これは自然を対象化してとらえるロマン派的な態度とは一線を画すものだ。

レインは自然を介して世界に眼を向けるだけでなく、時に自然が自己そのものであること、あるいは自然が自己のなかにすでに在ることを語り、内側から歴史が溢れだす様子をとらえる。そのさまを語ることはすなわち、自身の歴史をとらえ返すことにほかならない。

There is stone in me that knows stone,
Substances of rock that remembers the unending unending
Simplicity of rest ("Rock")

 

私のなかに石を知る石がある
決して 決して終わりのない単調な休息を
記憶している岩の物質がある

私のなかに石がある不思議は、別の詩"Nativity"でも語られている。自分のなかに重しのごとくある石が、かつての穏やかな時間を鮮明に記憶している。それは私の記憶がこの石を介して思いだされるということだ。私の経験はここではもはや私個人のものではない。それは石の経てきた気の遠くなる年月の記憶のなかに紛れ、世界の経験のなかに位置づけられた記憶と
なる。

As I went over fossil hill
I gathered up small jointed stones,
And I remembered the archaic sea
Where once these pebbles were my bones. ("The Jorney")

 

化石の丘にのぼり

私は節くれだった小石を集めた。

そしてかつてその石が私の骨であった古代の海に

私は思いを馳せた。

自然は生命の化石の山であり、そのなかには自分自身も含まれている。かつての自分と対峙し、それがほかの多くの生命とともに、歴史の海の底にあることを知る。「石」はレインの詩においてくり返しあらわれるイメージだが、石は不動であり、同じ場所にとどまりながらも、刻々と変化する世界を記憶するものだからこそ、生命の営為を司るものとして霊性を帯びて映る。

And errant night upon the table finds
That bread and wine upon the holy stone,
The body of the dead, and the unborn. ("Nocturn")

 

そして机を覆う道を踏み外した夜が見出すのは

聖なる石に載せられたパンとぶどう、

それは死者の身体であり、まだ生まれてはいないものだ。

死んでいった者だけでなく、まだ生まれていない者をも石と見なす。石は生命の生き死にを記憶する霊そのものであり、つねにその境界に私たちを誘う。そこには過去が絶え間なく去来しながらも紛れもない現在があり、両者が矛盾的に併存している。私はそのような石を自分のなかにもって生きている。「私は石を孕む(I have conceived a stone)」("Nativity")のだ。

自然と人間とを隔たった交わりのないものとしてではなく、矛盾的に同一化するものとして見る。レインは自然に他者とともに自己が深く沈みこむ様子を見て、自己も他者も同じ歴史を分かち、隔てられることなく自然に含まれうるのだと語った。個人はただひとりで独立しているわけではなく、万物とふれあいながら、同じ時間を生き、それらと分かちがたい関係を築くことで生命の歴史を形づくる。レインが石に見たのはそのような風景であった。

たとえばポーランドの詩人シンボルスカは"Conversation with a Stone"において石を自己に秘められた「場所」としてとらえた。過去と現在の私の距離をあらゆる詩で描いたシンボルスカにとって、石は過去の「私」がかつて在った場所としての意味をもつ。あるいはシルヴィア・プラスの"The Stones"では、石は自己の歴史がすべて否定された真白な人間のことを意味する。あらゆる過去をすべて切捨て人間を"修理する"工場で、語り手は別の人間として現在の自己を見出そうとする。いずれの詩人も同じように、生命の生と死、それらが混在する歴史のたまりのような場として、石を象徴化してとらえていると言えよう。

kandliterature.hateblo.jp

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 ●付記

 ブレイクの研究者としても知られるレインは、ブレイクの研究書も多く残しており、両者が比較的に論じられることもあるようだ。予言的、神話的な詩をつくりあげてきたブレイクの時代がある一方、レインはそういった詩がつくられる時代からは遠く隔たっており、むしろそのような神話が一度崩れ去り、荒野となった時代を生き抜いた詩人であった。彼女がブレイクからなにを学び、どのようにして彼の詩的ヴィジョンを自らの文学に抱きこんだのかは、もう少し深くあらためなければ私にはわからない。今後も細く長く読んでゆきたい作家のひとりである。

石を歴史との対話に必要な媒介として見るのは、まだここでは書いてはいないが、フランスのボンヌフォアの詩のなかにも見られる傾向で、石のイメージは予想外に詩との親和性が高いようだ。いずれどこかでまとめてみたいと思うテーマである。

それにしても、このようなすばらしい詩人が、死後もいまだ高く評価されないというのはなかなかに心苦しいものがある。レインについては少しずつ書きためて、いずれ大きくとりあげてみたいとひそかに計画している。翻訳もまた、レインの詩であれば挑戦してみてもよいかもしれない。こういった作家を発掘し、世の中にふたたび問いなおすのも、文学に親しむ人間の大切な役割のひとつではないかと思っている。

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