ワザリング・ハイツ ~本館~

Something childish, but very natural.

ル・クレジオ『物質的恍惚』を読む

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アンリ・ミショーで卒論を書いた、というところからすでに私の心を摑んではなさなかった作家である。おそるおそる手にとった作品が『物質的恍惚』で本当によかったと今でも思う。英語で書いたものが出版に至らなかったことから、フランス語で小説を書き、華々しいデビューを飾ったル・クレジオ。多文化の狭間で生きる姿勢は、のちの彼自身の転換期を予示するかのようである。メキシコ文化に傾倒し、のちにこの研究によって博士号を取得するまでになるクレジオは、難解で詩的な散文から、平易で素朴な散文へと作風を変化させる。『地上の見知らぬ少年』や『海を見たことがなかった少年』といった作品からは、それまでの初期の作品とはうってかわり、素朴な眼で自然を見つめた美しい描写が数多く見られる。

ぼくは書きたい、他のものがなくなるように、醜さ、卑劣さ、俗悪さがなくなるように、言葉がもはや金銭の奴隷ではなくなるように、言葉がもはや壁や紙葉を汚さなくなるように。すべてが以前のように、まだ大地のおもてに言葉が存在せず、侮蔑などがなかった時代と同じようになるように書きたい。(『地上の見知らぬ少年』)

飾り気がないありのままの自己の在り方に至ったのは、ヨーロッパのなかで感じてきた自己の在り方、あるいは文化と自己との軋轢を深く見つめてきたからにほかならない。世界は自分が生まれる前から存在しており、自分がそれと同じ「物質」でできている不思議を語る。自分自身が生まれる前の自他身分の状態について、彼はそれを「暗黒の部屋」と呼ぶ。生まれるまでのあいだ、自分はまだ自分として切りだされておらず――市川浩の言葉を借りるならば「分節化」されておらず――無の只中にいる。だからこそ自己は未来を感じさせ、永遠の現在でもあり、太古の昔と結びつく存在だとも言える。それゆえすべては世界に“あった”のであり、既知のなかに未知がすでに隠されている。これを受けて訳者の豊崎光一は「ル・クレジオはこの本によって、彼の『存在と無』を書いた」のだと指摘している。

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このように自己が必然的に、意志とはまったく関係なく切りだされるがゆえ、クレジオはこれを「運命」と呼んではばからない。人間は自己の「倫理」や「諸原理」に従って生きているが、それは自分で選択したものではなく、生来に選択されているものであり、ひとはみなそのような原理に従って生きざるをえない。自己はあくまで実体をもたない全体の一部をなし、私たちはそのような自己の内部に幽閉されている。しかしながら、自己は周囲の「風景」とともに変わってゆく。世界は自己をつくり、自己は世界をつくってゆく。それこそがクレジオが自己を「未完成」の無限だと述べるゆえんである。「形作られたのと同じやり方で、ぼくは形作る」(「無限に中ぐらいのもの」)。
このように世界が自己を描き、自己が世界を描く絶対矛盾的自己同一の世界では、他者によって自己が描かれ、自己が他者を描くのである。

ぼくから由来するすべてのことは、他人たちから来ていた。すべてだ。ぼくの実り多い考えの数々、ぼくの気分、ぼくの嗜好の数々、ぼくの道徳、ぼくの誇り。何一つとしてぼくのものではなかった。ぼくはそうしたものを取ってきたのだった。それを盗んできたのであり、ひとびとはぼくがそれをぼく自身のうちにしまいこむのを強いたのだった。(「無限に中ぐらいのもの」)

すべてが互いに働きかけ、互いを形づくると考えるとき、「その他人たちというのはぼくの中におり、ぼくを創りだした連中だ」と言うことができる(同上)。他者あっての自己であり、また社会によって自己が形成される。その一方で「実のところ、社会というやつ、ひとはそれを自己のうちに蔵しているのだ。すべてがそれによって始まりそして終わり、しかもそれは個人個人の中にしかない」(同上)。これは自己を見つめるまなざしがなければ自己は存在しえないということであり、すべてのものは相反するものと一体不二の関係にあるということだ。「たぶん、われわれを彼方へ引っぱる二つの力があるのだ、二つの矛盾する、激烈な力、われわれはその対立をわれわれの精神のうちに模倣したのである」(同上)。

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豊崎が指摘するように、「主体は還元しがたく二重であること、言語というものは自己同一的な〈私〉への信仰を許さないものであること、そして意識(眼差)が、主体を不可避的にみずからの外にほうり出すとともに、みずからに送り返すものであること」、これが本書の主題であり、クレジオの基本的な立場である。先に「絶対矛盾的自己同一」という言葉をひいたが、ここには西田哲学と響きあうクレジオの文学的姿勢が見える。「一たらんと欲する者は多なのであり、彼が一であるのは多であることによってなのだ」という言葉は(同上)、そのまま西田の「多が自己否定的に一、一が自己否定的に多として、多と一との絶対矛盾的自己同一の世界においては、主体が自己否定的に環境を形成することは、逆に環境が新なる主体を形成することである」という言葉で置きかえることができよう(『絶対矛盾的自己同一』)。そして西田が措定した「永遠の現在」については、クレジオは次のように書いている。

それになぜ遠くに、無限なるものと永遠なるものとの実現を求めるのか? 無限なるもの、永遠なるものはここにあり、われわれの前に現存している。われわれの足もとに、われわれの目の前に、われわれの皮膚にじかに触れて。われわれは一秒ごとにそれを感じ、それを味わい、それに触れている。(「沈黙」)

自己が「暗黒の部屋」に含まれたものであったように、また自己のうちに「暗黒の部屋」が矛盾的に含まれていたように、私たちは現在から切りだされたものであり、私たちのうちに矛盾的に現在が含まれうる。それゆえ現在を見つめることは自己を見つめることであり、自己が包みこむ世界の風景に眼を向けることでもある。このように世界をまなざすこと、そして自己をまなざすことはまた、世界から、そして他者からのまなざしによって形づくられることなのだ。クレジオが描くこのような自己像、そして世界像は、先にふれた『地上の見知らぬ少年』や『海を見たことがなかった少年』といった転換期の作品においても決して変わることがない。自己と世界がからみあって互いを形成するさまは、クレジオ文学の基底を成す思想だと言ってよいだろう。


●付記

とてもよい作家に出逢えたことをうれしく思う。『物質的恍惚』はもちろんだが、『地上の見知らぬ少年』もまた、これから何度も読みなおす一冊となるにちがいない。ル・クレジオは私にとって特別な作家のひとりとなった。

2008年にクレジオはノーベル文学賞を受賞した。『地上の見知らぬ少年』にある「ぼくは別の言葉のために書きたい。呪詛することも、憎悪することも、汚染することも、病毒をまき散らすこともない言葉のために書きたい」という言葉は、インゲル・クリステンセンの『アルファベット』を思いださせる言葉である。このような姿勢が多くの人々に支持されないわけがない。書くこと、そして文学に対して、つねに真摯に向きあいつづけたクレジオの姿勢が窺える。
最後に、文学についてとも読めるクレジオの美しい言葉をひいて、本稿を締めくくりたい。

いろいろな体系を創り出すこと、いろいろな不幸を創り出すこと、いろいろな寓話を創り出すこと、実在しない音の数々でもって神的な音楽を奏すること、それはよりよく生きてあるため、泥だらけの平原を踏まえて立っているためなのだ。(「無限に中ぐらいもの」)