ワザリング・ハイツ ~本館~

Something childish, but very natural.

村上春樹『ノルウェイの森』を読む

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だれにでも特別な一冊というものはあるだろうし、それは決して世の時流や年月の影響を受けず、いつまでも特別でありつづけるものだ。私にとっては『ノルウェイの森』がそのような小説である。二十歳当時の心のさざめきと時代の空気がこの作品を読むと今でも鮮明によみがえる。そこからの一年は、その後の歩みを大きく左右する――それもかなり長い年月において――忘れがたい経験をはらんだ一年となった。だからこそ『ノルウェイ』との出逢いは私にとって忘れがたい。

二十歳を過ごした一年に、『ノルウェイ』を皮切りとして、同時代の日本の小説へ没入した私は、それまでの翻訳文学を基底とした読書習慣をがらりと変え、吉本ばなな角田光代江國香織村山由佳姫野カオルコといった作家の作品をよく読んだ。女性作家が多くを占める傾向もこのときからのものであると思う。海外文化にふれることを生きがいとしてきた人間が、ようやく眼の前にある母国の文化に手をふれるべく思考と感受性とを開き、おそるおそる相対したような具合である。私にとって、海外文学と日本の現代小説のあいだの大きなちがいは、物語との“近さ”に尽きる。自分の棲まう世界、日常的にふれている文化、日々に抱く問題、行くことのできる場所、そういったものが自分と物語を阻む隔たりをとり去ってくれる。『ノルウェイ』はそのことに気づかせてくれた。

1987年発表の本作は実に奇妙な小説で、色とりどりの話題がひしめきあうような小説、とでも言えばよいだろうか。大学、寮生活、高校時代の思い出、親友、恋愛、性、文学、音楽、自殺、精神病理、孤独。東京という土地も忘れてはならない。そのひとつひとつが読者の心に掛かり、郷愁を誘い、また哀愁を誘う。詳述される東京の街の風景は、地理も含めてかなり精確に描写されており、読者が物語の風景をより現実的に思い描くのに一役買っている。村上の作品はしばしばアメリカ的だと形容される一方で、たとえば谷崎川端が描いた日本の姿と同じように、同時代の日本の見たままの姿を描いた点で逆説的に日本文化を詳述しているとも言えよう。今の日本の社会を緻密に書こうとすればするほど欧米的な社会が見えてくるというのは、言うまでもなく、日本が欧米文化と拮抗しながら社会を築きあげてきたからである。

村上がドストエフスキーの総合小説を評価しているところからも窺える通り、彼の小説には物語の本筋とまったく関わりをもたない(ここをどう定義するかは難しいところではあるが)冗長な描写が多く、芥川のように一文一文がすべて意味をもち、物語のなかで有機的に結びつくというものではない。しかし小説、あるいは散文というのは本来そういった書きものであり、19世紀イギリス小説を読めばわかるように、小説はむだがあってこそだとも言える。そのむだを存分に使い、作中人物のありのままの姿を詳述し、生身の人間としての印象を色濃くふちどってゆくのである。

ノルウェイの森』は生と死を見つめた物語であり、その中心にはセックスがある。これは以前にも書いたが、セックスした相手とワタナベはその後必ず別れてしまう。街で見つけた女の子や、直子、そしてレイコとも彼はちがう道をゆく。本来セックスとは子供をつくる行為、家族をつくる行為であり、相手と心身を結びあわせる行為である。しかしこの小説ではセックスはつねに別れの予感をはらんでおり、だからこそ緑とは最後までセックスをしない。

さらに困惑するのは、セックスがまるで作業のように淡々と描かれ、いかなる感情も溢れでない無味乾燥な行為として書かれているところではないか。あまりくわしくもない仕事を手探りで行うかのように、相手の細かな仕草や表情を観察しながら真白な心で行う。性行為は文字通り生の行為であるにもかかわらず、作中のセックスからはまったく生が感じられない。むしろ死と別れの気配が漂う寂しいものばかりである。生成の行為であるはずのセックスがなにも生みださず、心だけをすり減らして重ねられるさまは、自分のうちでばらばらになったものをどのようにして束ねたらよいのかがわからない、いわゆる離人感覚そのものである。相手との心のつながりは言うまでもなく、自分の心と身体も切りはなされ、身体は飢えて求めながらも心はちがうところにある、心身のまったく伴わないセックスばかりが重ねられる。そして直子は心に反して身体が乾き、あるいは濡れ、自分の身体と心が乖離する現実に耐えられなかった。

また彼らは他者から求められる姿を演じながらも、その無為に気づき、疲弊している。ワタナベが人形みたいな人物だと揶揄されるのは、彼が無色透明な人間だからではなく、他者にとって都合のよい存在としてあろうとするからだ。永沢からも、街で出逢う女の子からも、直子からも、彼はなにかを求められれば決してそれを拒まない。その役割に自然と収まり、相手のほしいものを渡し、決して自分を表に出さず、そのぬるま湯に案じている――しかしそれこそ、彼がキズキを失って以来、必死に心掛けてきたことではなかったか。「あらゆる物事を深刻に考えすぎないようにすること、あらゆる物事と自分のあいだにしかるべき距離を置くこと」。それはつまり、他者の求める自分に甘んじ、個を滅し、自己を相対的にあらわさない生き方である。裏を返すならば、そのような役割同一性に徹しなければならないほど、彼にとってキズキの死は大きな出来事であったのだろう。

直子は心身が意図せず切りはなされてしまうのに困惑し、ワタナベは自ら意図して心身を切りはなした。ふたりはキズキを失い傷ついた似た者どうしに感じられるが、事実はまったく異なる、むしろ相容れない地獄を互いに抱えていたと言うべきだろう。そのふたりが恋人まがいのセックスをしたと考えると、ここまで意味のないセックスがあるだろうかと思ってしまう。『ノルウェイ』の切なさは、無為なものとわかっていながらそれを求めざるをえない、疎隔された心のむなしさにあるのではないか。この物語を支配するのは青春の“センチメンタリズム”などではなく、自己同一性をゆるがされた人々が絶望のふちに立ち、本当にあるのかもわからない自らの淵源を静かに見つめる“孤独”にほかならない。

 

●付記

風の歌を聴け』から『アフターダーク』(当時の最新作)まで村上春樹作品をおよそ三箇月で読破した。もともと速く多く読む人間ではないのだが、あのときばかりは読み捨てるように次々と読破していった。そしてほとんどの作品を読返すことがなかった。現在の私は村上作品をまったく読まないのだけれど、『ノルウェイの森』と『羊をめぐる冒険』だけはおりにふれて読みついできた。『ノルウェイの森』については毎年必ず頁をめくるし、あまりにたくさん読返したので、たとえば英訳版を読めばもれなく日本語が思いだされるほど自分の身体に染みこんでいる。

特別な一冊は、風評や時流に左右されず、いつまでも大事に読みつぐべきだと私は思う。私にとってこの作品は、物語そのものだけでなく、本をもって訪れた場所、あるいは本を読んだ当時の空気や出来事といったものが、頁を開くたび不思議と心によみがえってくるものである。読書とは、文学とは、そのようなものであるべきだ。自分の文学の底流にはつねにこの物語が流れているような気がする。十数年経った今もそう感じるのだから、これからもずっとそうありつづけるのではないだろうか。