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Something childish, but very natural.

アルベール・カミュ『ペスト』を読む

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現在の世の中を見てカミュの『ペスト』が思いだされたと実に多くのひとが語る。たしかに原因不明のコロナウイルスが次々と無差別に人間をとらえ、身体や心、思考、生活を喰いあらしてしまうさまは『ペスト』に描かれた通りであり、また医療関係者の心のうちは、まさにその惨状を間近で見つめつづけたリウーの心そのものなのかもしれない。友人とその話をしたおり、そういえば『ペスト』や『シーシュポスの神話』を読み返すのはどうだろうか、と思い至った。『シーシュポス』は大学生の私をフランスの暗闇に深く誘った文学のひとつである。大学進学に前後して、フランスものを文学の入口とした私にとって、カミュを手にとるのは時間の問題であった。『異邦人』を読み、その次に手にとったのが『シーシュポス』である。そして『ペスト』や『幸福な死』、『革命か反抗か』、『反抗的人間』とつづく。

「不条理」と聞いて、「太陽がまぶしかったから」とくれば、あまり文学に詳しくなかった思いこみの激しい文学青年は、これは斬新だ、と眼を光らせてしまう。まさに私がそうであった。しかし昨年、記憶を探りに探ってようやく思いだした文献、ベルナール・パンゴーの『カミュの「異邦人」』を読むと、ロラン・バルトが『異邦人』を「戦後第一の古典小説」と形容したと書いてある。バルトがそんなことを言っていたのかと驚いたとともに、『異邦人』が古典だと言われた私は、思わずイタロ・カルヴィーノの『なぜ古典を読むのか』という本をめくってしまった。そこにはこう書いてある。

「自分だけ」の古典とは、自分が無関心でいられない本であり、その本の論旨に、もしかすると賛成できないからこそ、自分自身を定義するために有用な本でもある。(『なぜ古典を読むのか』)

なるほどまちがいなく『異邦人』は古典である。ムルソーの言動は私にはまったく理解不能であったし、それは今でも同じである。しかし、それでも私がカミュに惹かれていったのは、おそらく理解不能である理由を探ることに無関心でいられなかったからであろうし、またそこにこそ若い自分の心をとらえなおすための手掛かりが隠されていると感じたのではないか。世の中が不条理であること、どうにもならない現実が次々と心に影を落とすことに、漠とした不安を覚え、それをなかなか拭えなかった。結局カミュを読んだところでなにも変わらなかったのだけれど、まさにそのとき私はカミュの書いた不条理を生きていたのだと、長い年月の経った今ではなつかしく思い返すことができる。

『異邦人』を今読みなおしてみると、バルトの指摘したように、さして新しくもなければ斬新でもない。ましてやカミュの扱った不条理の主題は私たちの日常にごくありふれたものである。カミュがそれをとても誠実に、あたたかみをもって文学にとり入れたことは、『ペスト』を読めばすぐにわかる。奇をてらったのではないからこそ、カミュの書きつづけた主題は多くのひとの心に届いた。するとカルヴィーノの書いた「もしかすると賛成できない」が「無関心でいられない」という言葉にも得心がゆく。これはまさしく不条理の定義そのものではないか。カミュは不条理についてこう書いた。

不条理は、それに同意をあたえないかぎりにおいてのみ、意味があるのである。(『シーシュポスの神話』)

受容れがたいからこそ意味があると言うわけだが、より精確に言うならば、そう考えなければとても生きつづけられない、ということになろう。それが『ペスト』で描かれた世界であり、世の中でくり返されてきた「不条理な」現実である。それゆえ不条理とは、たとえば西田幾多郎が言うような、絶対矛盾的自己同一の世界を形容したものとも言える。生きる意味を突詰めれば受容れがたい現実にぶつかり、なまやさしい現実を生きれば生は空転してしまうという、袋小路に生きる人間の生をカミュは単になぞったにすぎない。
それゆえ不条理を、幽閉状態でありながら反抗的でもある、と書いたジェイムズ・ウッドの指摘は鋭い。

But, adds Camus, there may be a moment when Sisyphus is walking back down the hill when he is briefly free, when he is ‘superior to his fate. He is stronger than his rock.' Sisyphus, then, is both prisoner and rebel. (Sisyphus 170)

岩を山頂まで運んだとしてもやがて転がり落ちてしまう。そしてふたたび山頂まで運び、また転がり落ちる岩を追いかける無為な作業の反復が、神がシーシュポスに課した刑罰であった。無限の反復に囚われながらも、決して手を休めることなく作業をつづけたシーシュポスの勤勉をカミュは讃えているが、その反抗心は囚獄の身だからこそ生まれでたものでもあった。カミュはこうした矛盾をあたりまえのものとして受けとめ、矛盾を起こすものどうしの軋轢から生まれる感情を見つめつづけた。

彼がかちえたところは、ただ、ペストを知ったこと、そしてそれを思い出すということ、愛情を知り、そしていつの日かそれを思い出すことになるということである。ペストと生とのかけとにおいて、およそ人間がかちうることのできたものは、それは知識と記憶であった。おそらくはこれが、勝負に勝つとタルーの呼んでいたところのものなのだ!(『ペスト』)

ペストはなにをひとにもたらしたのか。災厄だけをもたらすものは決して災厄とは言えない。幸か不幸か、ペストに憑かれた町の人々は「知識」と「記憶」を獲得し、「愛情」をなつかしむきっかけを得たとカミュは書く。それこそペストの日々から勝ちえた人間としての価値だと高らかに結論づける――カミュが不条理の先に見ていたのはこのような風景であった。カミュの不条理の思想は、あらゆる価値を無に帰する非人間的なものとはまったくちがう、人間的で愛情に満ちた、生きる者の苦悩の上に成りたつ思想であった。それゆえ『ペスト』がナチスのパリ包囲を寓意的に描いたと考えるのは大変意義深い。受容れがたいものを、ただ暴力的な心で抑圧するだけではなく、歴史を記憶し、知識を得て、愛情を語らう心がまさに求められているのである。

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●付記

大学院の修士課程にいたとき、学部のフランス語の授業でカミュの『ペスト』を読んだ。『ペスト』を読んでそのときすでに5、6年の歳月が経っていたが、原文であらためて読む機会を得たことは貴重だったと今でも思う。さらに10年近くが過ぎ、めぐりめぐって今ふたたびこの作品の頁を開くことになるとは思わなかった。文学との付きあいもだいぶ深くなってきたということだろうか。

物語のなかで様々な寓意をもつ「ペスト」だが、それはパンデミック収束後に付された次のような一節からも窺える。

こういう人々――今や無名の墓穴のなかに紛れ、あるいは肺の堆積のなかに溶け去った人間とともに、あらゆる歓びを失ってしまった、母親たち、配偶者たち、恋人たちにとっては、相変わらずペストが続いていたのである。

文学作品はたったひとつの目的を目指して書かれるわけではない。この作品がペストを題材にとり、千態万様の主題をたたみ込んでいることは、読み進めればすぐにわかる。カミュの作品は総じて人間的であり、そこが長く読みつがれている理由のひとつでもあるのではないか。

『ペスト』を足掛かりとして、『シーシュポスの神話』、『異邦人』についても次いでとりあげてみたい。これだけ時間をかけてカミュ三部作とじっくり向きあう機会がやってくるとは夢にも思わなかった。幸運なものである。

<引用文献>

 アルベール・カミュ『ペスト』宮崎嶺雄訳、新潮文庫、2005年

 アルベール・カミュ『シーシュポスの神話』清水徹訳、新潮文庫、2004年

 イタロ・カルヴィーノ『なぜ古典を読むのか』須賀敦子訳、河出文庫、2012年

 James Wood. "Afterword: Camus' Belief." The Myth of Sisyphus. Trans. Justin O'brien. London: Penguin, 2013.

 ⇒アルベール・カミュ『シーシュポスの神話』を読む - ワザリング・ハイツ ~本館~

⇒アルベール・カミュ『異邦人』を読む - ワザリング・ハイツ ~本館~