ワザリング・ハイツ ~本館~

Something childish, but very natural.

アンナ・カヴァン『氷』を読む

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アンナ・カヴァンがヘロインと共存した女性だというのは有名な話である。毎日決まった時間に一回、自分でヘロインを注射する。中毒者にはちがいないが、彼女は薬と共存していると医者は言い、治療よりも現状維持を勧めたというのだから驚きである。

The Guardianの文学の記事は定期的に読むのだが、アンナ・カヴァンに関する記事はいまだときおり眼にする。ポストモダン、あるいはポスト・ポストモダンと言える今の時代にあって、カヴァンのディストピア的、世紀末的世界は、かつてウィリアム・ブレイクが預言的詩人として受容れられたように、現代を予示する文学として再評価されはじめるのかもしれない。日本では『ジュリアとバズーカ』などの翻訳が出て、ようやく数年前に『氷』が復刊、最近は『アサイラム・ピース』が文庫化するなど、翻訳文学愛好家のあいだでも再評価の熱が高まっている。

十年近く前にイギリスにいた頃、どうやって見つけたのかはもう忘れてしまったのだが、インターネットを通じてカヴァンの存在を知った。カフカと並べて言及されていたのを見て、これはと思って町の書店(かのWaterstones)に行ったがまったく売っておらず、仕方ないのでamazon.UKで十冊近く大人買いをした。そのときはじめて読んだ作品がこの傑作長篇Iceであった。カヴァンとの出逢いは私の文学を大きく変革した。

一言で言えば幻想文学マジックリアリズムの作風であり、殊に『氷』に至ってはSFの要素もかなり強い。ピーター・オーウェン版にはクリストファー・プリーストの序文がついており、そのなかで彼は、オースター村上春樹バロウズといった作家とともにカヴァンを「スリップストリーム」というジャンルに分類している。またドリス・レッシングが讃辞を添えたことからもわかるようにモダニズムの時代に活躍し、ポストモダニズムの作風だと言えばそうで、たとえばMy Soul in Chinaなどを読めば精神分析による読みを誘う文学だとも言える。おびただしい数の著作を残したカヴァンの全体像を描くと、この作家がいかに文学的価値の高い作家であるかは容易に想像がつく。そしてなによりカヴァンは描写が本当に美しい。描写が命の小説にあって、ほかの作家と比べてみても、カヴァンの描写は群を抜いている。

少女は絶望的に四方を見まわした。どこも完全に巨大な氷の壁に閉ざされている。眼をくらませる光の爆発に氷は流体となり、壁全体がとどまることのない液体の動きを見せて刻々と変容しつつ前進し、海洋ほどにも巨大な雪崩を引き起こしながら進んでいく氷の奔流が、破滅を運命づけられた世界の隅々にまであふれ広がっていく。どこを見ても、少女の眼に映るのは同じ恐るべき氷の環状世界。そそり立つ氷の壁また壁。のしかかってくる猛々しい巨像のような極寒の氷の波が、今まさに少女の頭上で砕けようとしている。氷から放射される死の寒気に凍りつき、氷の結晶の強烈な輝きに視力を奪われて、少女は自身もまたこの極地のヴィジョンの一部になったように感じる。自分という構造が氷と雪の構造と一体化したように感じる。みずからの運命として、少女はこの輝き揺らめく死の氷の世界を受け入れ、氷河の勝利と世界の死に自身を委ねる。

小説のなかの一文は、作家の歩んだ人生そのもののあらわれである。言葉の選択を重ねる裏に、これまで作家を形づくってきたあらゆる言説が隠されている。そして一文が、一節が、一段落が、物語のなかでどのような役割をもち、なにと響きあい、からみあい、有機的にイメージを生成するのか、読者は慎重に考えねばならない。カヴァンの描写を読んだときに感じるのは、写実的と言える描写であるにもかかわらず、頭のなかで言葉が具体的な像を結ばないということである。ある情景をうつしとったものであるはずが、その情景を頭のなかで再構成することができないのである。今ここでなにが起きているのか、どんな状況なのか、与えられた手掛かりからはまったく見当がつかない。このような再構成を拒むカヴァンの特徴的な描写は、たとえば山尾悠子の読者にとっては親しいものであるかもしれない。マジックリアリズムというのは、しばしばルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』がひきあいに出されることからもわかるように、頭のおかしい無秩序な世界ばかりを描いたものに思われるが、むしろカヴァンのように精緻で一点の曇りもない描写と、その素描があらわすつぎはぎの世界、既知の言葉で埋めつくされた未知の世界の描出こそを、マジックリアリズムと形容すべきではないだろうか。

『氷』の世界が不気味な様相を呈する理由はもうひとつある。ディストピア的世界はすべてが謎に包まれており、氷が大陸に流れてくる真の原因も、本当は世界でなにが起こっているのかも、最後まであきらかにはならない。世界で起こっているはずの崩壊、それをあくまで局所的に経験し、運命に抗う人々を私たちは目の当たりにする。彼らに見えるのは、あるいは私たちに見えるのは、あくまで現実の断片にすぎず、この世界を暗く覆う氷の全体像を見晴るかすことはできない。氷の世界に幽閉された彼らは、ばらばらになった情報をただ恣意的につなぎ合わせ、各々の思う文脈のなかでそれらを自由に紐づけてしまう。そのようにして構築された情報がひとに及ぼす影響を本作では「力」と呼び、たとえば長官という人物は、その「力」をもった人間として描かれている。『氷』における現実感の欠如は、切りとられた世界の全体像が描けず、それゆえ眼の前の現実を信じてよいのか疑わしくなる疑念からくる。現実は幻かもしれず、幻がむしろ現実かもしれないという予感は、つねに「私」につきまとう気配でもあった。

しかしよく考えてみれば、世界全体が描けないなどさしてめずらしくもなく、私たちの日常においてはごくありふれたことでもある。大昔にマルクスが大量生産について指摘したように、自分の見ている物事がどんな役割を担い、なんのためにあるのかを探りながらも、私たちは物事を不完全のまま受容れて生きている。これがカヴァンの眼を通して見ると、本当に異常な状態として見えてくるのが不思議である。現代を寓意的に描いた本作を通じて、私たちの現実の不整合をカヴァンは次々とあばきだす。

世界の危機を背景として描きながらも『氷』は「私」と少女の自己の問題を中心に据える。「私」は幾度も少女を追いかけ、追いつき、ひきはなされ、そしてふたたび出遭う。延々とくり返されるこの追走劇は、やがてふたりがともに逃亡しはじめるところで幕引きとなり、彼らをとり巻く世界もまた終焉の兆しを見せる。追う/追われる立場に収まり、ふたりは役割同一性によって自己を保持しつづけたが、その役割を手放すことでふたりも終わりを迎える。これによく似た例は『フランケンシュタイン』のなかにも見出せる――どちらが被害者/加害者と定義することの難しい、また定義する意味がない、矛盾的に両者が同一化する事態である。

少女は様々なものを表象し、それはたとえば「怖れ」であり(第5章)、権力に虐げられる世の中の弱者であり、「私」の生きる希望であり、また世界の秘鑰でもあるとされる。過度に抽象化された少女をいかにとらえるべきかは悩ましいところでもある。『氷』は高次の形而上学的小説であり、ペソアが「私たちが見るものは、見られたものではなく、私たち自身でできているのだ*1」と言ったように、作中に散らばる多様性をどのような道筋をたどって自分のものとしてひき受けるかで、氷に閉ざされた世界の背後に見えるものは大きく変わってくるのだろう。

 

●付記

それにしても謎の多い物語である。氷に覆われた世界、少女の存在そのもの、語り手のインドリに対する病的なまでの執着ももちろん、わけがわからないし、読めば読むほど私たちの理解を拒むテクストは実に文学的なあそびに満ちている。カヴァンの原文は豊かな形容詞に彩られた美しい文章だが、それと同時に現実を瓦解させる粗暴な力と複雑さもはらみ、とても味わい深い。私好みの文章である。
カヴァンとの出逢いは私の文学を大きく変えてくれた。彼女の書くものは総じて暗く、孤独で、救いようがない。しかしその一方で、孤独のうちにしか見えてこない静かな生の風景が、カヴァンの物語にはたくさん描かれている。『ジュリアとバズーカ』や『アサイラム・ピース』はもちろんだが、Sleep Has His HouseMy Soul In Chinaといった作品からも、自己にひそむゆがみを見つめつづけたカヴァン文学の特質を見てとることができよう。
またIceを読むうえで参考になるサイトをひとつ紹介しておきたい。ネットにこんなよいものが転がっているのは大変うれしい。ぜひ一読していただきたい。

smallbeerpress.com

●註釈

*1:『不穏の書』澤田直訳、平凡社、2013年