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メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』を読む

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 メアリー・シェリーとの出逢いは、精確に言えば『フランケンシュタイン』との出逢いは、今から10年ほど前にさかのぼる。英語で古典を読切るのは今もなお苦痛であり、信じられない苦労を伴うものだけれども、この作品だけはまったく苦にならなかった。毎週課される50~60頁の読書も一日か二日であっという間に終えてしまい、授業でなにを話すか、どこが気にかかりどのような読み方ができるのか、あらゆる角度から分析しては、翻訳を頼りにふたたび丁寧にたどりなおして考えをめぐらせた。もし次に大きな論文を書く機会がめぐってきたら、メアリーに、この『フランケンシュタイン』に、すべてを捧げるだろうと確信している。

私にとっての英文学史上最高傑作と言える小説は『フランケンシュタイン』である。だれがなんと言おうとこれはゆるがない。ときおり見かける、荒削りの構成だの力強さに欠けるだのといった評は、いったいどこをどう見たらそんな結論に達するのかまったく理解に苦しむ。これほどまでに落ちついた筆致で明晰に理を分けて世の中の矛盾と孤独を書いた作品は本当に稀である。そしてなにより、ハロルド・ブルームやミュリエル・スパーク、グレアム・アレン、そして日本では廣野由美子が示したように、本作のテクストに満ちる批評的意義、主題の有機的な結びつきと多様性、普遍的な問題と現代的な問題の響きあいといった、様々な文学への入口が見つかる物語を、傑作と呼ばずしてなんと呼べばよいだろうか。

フランケンシュタイン』を読むと読者は三人の人物について思索をめぐらせることになる。冒険家ウォールトンと、怪物をつくりだしたヴィクター・フランケンシュタイン博士、そして怪物。彼らは三者三様でありながら非常に似通った存在であり、それぞれが互いの分身(quasi-double)、つまりは鏡像として機能する。自然の神秘をあきらかにしようと北極へ向かうウォールトンの、姉に宛てた手紙から物語ははじまる。導入部が書簡体の形式をとり、道中で出遭うフランケンシュタインが語りの役をひきとってからからは、一転して回想物語に形を変える。そこへ怪物の独白が入りこみ、物語は二重の入子のなかで三者の信念を語りだしてゆく。彼らの言葉や論理はどれも明白で説得力がありながらも、最後まで互いを斥け、決して交わることがない。三者の、特にヴィクターと怪物の主張は、どちらも正しくどちらも誤っていると言えるがゆえ、すべてが相容れないまま物語は幕を閉じる。いつまでも空転したままなにも解決されない世界は、まさに私たちの生きる世界そのものでもある。

f:id:SengChang:20200524211938p:plainフランケンシュタイン』をつらぬく大きな主題のひとつは、西田幾多郎が言うところの絶対矛盾的自己同一の世界であろう。幼い頃に母を亡くし、このような悲しみをくり返さないという強い思いから、ヴィクターは生命の神秘を探求する化学の世界へ踏込むが、彼の知の探求がのちに怪物を生みだす悲劇を招き入れたのだと言ってよい。世のために知を極めた研究者が、その果てに人間を脅かすものをつくりだしてしまうという、当初の目的と正反対の結果が導きだされるのだ。正義を求めて研究を重ね、その最大の成果として悪が生みだされるというのは信じがたい皮肉である。これがヨーロッパの“知の黄昏”として理解されたのもうなずける――フランス革命直後の当時の動乱の最中にあって、ヨーロッパを支配する陰鬱な時代の空気をメアリーは強く感じ、それを作中にあらわしたとも言われる。それは『最後のひとり』に黙示録的世界として特に強くあらわれるが、ヴィクターと怪物が北極に至って追走劇をくり広げるなど、本作もまた来るべきディストピアを予示する不穏な黙示録として読める。当時メアリーが世の中に対してどれほど悲観的であったのかは、本作と『最後のひとり』を読めば、想像に難くない。

ヴィクターのふりかざす正義は怪物にとっては純粋な悪である。ヴィクターの正義はまぎれもなく人間の世界の正義であり、怪物を排斥するため周到に構築された正義でしかない。やむなくひとを殺した怪物は、ヴィクターの主張する正義の前になす術がない――しかし、そもそも正義とはなんであろうか。だれのつくった、だれにとっての正義なのだろうか。ここにはニーチェの主張したパースペクティヴの問題が垣間見える。第一に怪物は人間ではない。生物学的にも人間ではなく、また人間社会において人間とともに育ち、社会的な自己を保持しているわけでもない。そのひとならぬものを、ひとの道徳で裁くというのがはなから大きな誤りであり、明白な矛盾にほかならない。これはたとえば岡本倫の『エルフェンリート』で描かれた問題とも響きあう。人間でないものを人間の倫理で裁くことは矛盾であるが、そうしなければ人間社会を守ることができないという、ある種の二律背反がここにはひそんでいる。メアリーはいち早くこの問題に眼をつけ、人間の法で裁きたくなる“人間ではない存在”を巧みに創造し、彼を通して人間の偽善を見事にあばきだしてみせた。

そしてここにこそ、現代において本作を読みなおす理由がある。まさに今、私たちの周囲であたりまえになりつつある、人間によってつくられた人間に似て非なる存在へ、同じ法を適応してもよいのかという問題である。人工知能を積んだ人間の身体をもつ機械は、果たして人間と言えるだろうか。私たちと同じように心を理解し、痛みや悲しみを“感じているように見える”としても、私たちは彼らを簡単に廃棄できるだろうか。彼らがまさに怪物と同じ論理で反駁してきたとき、私たちはなにか語るべき言葉をもっているだろうか。こうした問題を提起する準備がすでに1818年にはできていた。それこそがまさに最も驚くべきことではないだろうか。

 

 ●付記

1818年版と1831年版の論争についてはあまりくわしくないので立入りたくない。ただ、夫のP・B・シェリーが大幅に手を入れたとされる後者よりも、前者の方がメアリーの意図に近いのではないか、とこの本をレクチャーしてくれた先生も言っていたので、私はいまだにOxfordから出ている1818年版を愛読している。ただこの版を定本とした翻訳はおそらく存在しないため、1831年版の翻訳となるが、創元推理文庫の森下弓子訳が日本語版としては最もよいと思う。そういえば言及し忘れたが、メアリーの夫P・B・シェリーは当時一世を風靡した著名な詩人であるが、彼よりもメアリーの著作の方が、現代の読者にもなじみが深いというのはおもしろい話である。

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一昨年の暮れに公開されたメアリー・シェリーの映画があまりにも笑える内容だったので、メアリーの名前や『フランケンシュタイン』自体も思ったより世の中に浸透しなかった気がする。イギリスの反響も気にかけて見ていたが、とりたてて盛りあがっているようにも見えず、主演女優が美しかった以外特になにも得るところのなかった作品となってしまった。予告編の法がよほどおもしろい。

フランケンシュタイン』の映像作品については、BBCがドラマ化したシリーズが一番よくできている。何年か前に『シャーロック・ホームズ』をドラマ化して話題になったが、BBCは古典文学の映像化について、非常によい仕事をしてくれる。忠実に再現された『フランケンシュタイン』は、ハリウッド版とは大違いなので、ぜひBBC版を手にとることをおすすめしたい。
最後にあらためて、この物語は稀代の傑作小説であり、様々なものを犠牲にしてでも読まなくてはならない作品のひとつである、と言っておきたい。古典文学というのは私たちの生きる現代を新しい視点で見つめなおすためにこそあるものだと思っている。今後ふたたび注目され、多くの読者を獲得することを願ってやまない。

⇒メアリー・シェリー「マチルダ」を読む - ワザリング・ハイツ ~本館~