ワザリング・ハイツ ~本館~

Something childish, but very natural.

柳美里『ゴールドラッシュ』を読む

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酒鬼薔薇事件のことはよく覚えているし、この時代のダウナーな空気を吸って生きてきた私としては、ここに描かれた世の中はわりと身近なものであったと言える。キレるという言葉が毎日のように報道で踊り、バタフライナイフが流行し、援助交際が話題となり、中高生の息苦しさが毎日のように報道された。それから20年以上が経ち、世の中のなにかが変わったかと言えば、なにも変わってはいないだろう。

なにかと話題の作家であるが『フルハウス』『家族シネマ』『タイル』『自殺』『男』といった作品からは、自暴自棄になりながらも手探りで生にしがみついて生きる人間の姿が描かれており、作家になるべくしてなった人間なのだと強く感じさせる。孤独に生きる人間が、静かに心のうちで育むぞっとするような狂気と、それだけを自己存立の根拠として生きる地獄は、彼女の小説において最も特徴的な主題であろう。

柳美里と対談し、『ゴールドラッシュ』に讃辞を述べた心理学者の河合隼雄は、彼女が魂を削りながら心の深みまで降りてゆき、これだけのものを書いてよく戻ってこられたものだと感嘆の言葉を洩らした。父殺しの主題は文学における普遍的主題のひとつであるが、青少年の犯罪、教育、性といった問題が問われるだけでなく、大人の、それも坂を下りつづける自身の醜さをあきらめた大人の、心の変容が多様に描かれるところが興味深い。父を殺した少年の問題を考えるためには、彼の周辺にどのような世界が広がっているのかをまず知らなければならない。酒鬼薔薇事件が起きた際、そのようにして周囲に眼を凝らしてみてはじめて、その世界の醜さに大人は顔をゆがめたのである。

本作が徹底して叫んでいるのは「だれにとっての理なのか」という問である。あるいは「だれにとっての常識なのか」と言ってもよいかもしれない。少年や響子、少年の父、金本といった人間にとっての常識は、たとえば私の常識とは異なる秩序に育まれたものであろう。だがそれはあくまで私の常識をもとに彼らの常識をはかったときに生じる差異にすぎない。そもそも両者は交わるものでもなければ、比べられるものでもなく、出逢うはずのない隔たった価値の両極である――問題はそういった異なる価値の軋轢を生む世の時流にこそある。共存させるのではなく、互いを斥け、排除しようとする強い力が働く。その反動が自然と少年を父殺しに導いてしまうのである。

しかしながら少年のうちには奇妙なねじれも見える。父そのものがルールである社会に生きる少年は、その秩序を転覆させるべく父親を殺してしまう。しかしその行動は、自身のルールにそぐわないものを排除する、父のルールそのものであることに少年は気がつかない。彼は父の背を見て育ち、父のつくりあげた秩序へ実は柔軟に適応しており、自分の理からはずれたものを自分の力でねじ伏せようとする。父殺しに手をつけたのはまさに必然の結果と言えよう。

パチンコ業界で財を成した社長の息子として、幼い頃から大人に頭を下げられて生きてきた少年は、金と利害で結びついた人間関係を常識として育ってきた。少年は子供ではなく、あくまで社長の跡取りであり、店の従業員はだれも少年の命令に逆らえない。

九歳のころからおとながみんなバカに見えた。父親、母親、教師、ベガスの従業員、みんな頭が悪くてうそつきで汚らしく思えたのだ。そしてなによりも自分にとっては邪魔者でしかなかった。九歳でおとなになったのだ。

少年を子供として扱う大人は彼の周囲にはひとりもいない。それゆえ少年は、子供としての自分をゆがめて大人のようにふるまい、父親のように金と暴力をふるって周囲の人間と付きあう――この少年は果たして異常だろうか。もし異常だとすれば、それはだれから見たときの異常であろうか。精神科医木村敏は、「普通に精神異常と呼ばれている現象、それは決して個々の精神活動、たとえば知覚とか言語能力とか認知機能とかの異常ではなくて、他人との適当な距離の取りかたの異常であり、他人との関係の持ちかたの異常」であると述べており、他人や周囲の環境によって、自己が異常な心身活動をとらざるをえない事態がそこにあると主張する*1。少年の陥った地獄は“関係の病”であり、彼の置かれた秩序の外に彼を導く関係こそが、本当に必要なものであった。金本はこれを「物語」と呼んだ。

何十年も前のことだ、金本は黄金町のスナックの二階で馴染みの娼婦を抱いたあと、赤ちゃんができたの、あんたの赤ちゃんよ、明日堕ろすわね、と軽く明るく告げられた。空に上がる打ち損じのテニスボールのような声だった。あの娼婦は客でも友人でもない他者と性以外の物語でつながりたかったのだ。いま切実に他者を求めている自分もまた、だれかと物語を共有したいと願っているのか。この子と罪の物語を?

少年が金本に「ぼくのパパになってください」と懇願する場面がある。父親にはなれない、と金本はこれを一蹴するが、彼は大人-子供の対等な関係を少年と結び、社長の跡取りとしてではなく守るべき子供として、彼を見守りつづけることを心に決める。それは少年と同じ「物語」を共有することにほかならず、父母がいないに等しい少年の保護者として、彼に別の社会を見せる役割を担うことでもあった。そして同じように少年と「罪の物語」を共有し、彼と対等な関係を結ぼうとする少女、響子がいる。

『ゴールドラッシュ』は『罪と罰』の現代的な物語として読まれることがある。ソーニャがラスコーリニコフを救済するように、響子は少年と同じ物語を分かつことで、地獄に幽閉された「大人でも子供でもない」少年を解放ち、ともに生きてゆく選択をする。彼らに必要だったのは、どこのなにとも知れないうすぼんやりとした常識ではなく、少年が子供らしくふるまえる関係、あるいは彼が本来の自分を秩序づけることのできる「物語」であった。

世の中が高々と謳う常識の外に追いやられ、孤独に崩壊する少年にばかり眼がゆくが、世間と迎合できない人間がつめたく斥けられ、その外側で静かに狂ってゆくしかない世の中こそ、本当の意味で狂っていると言えるのではないだろうか。そしてそのような運命をたどった人間、物語の欠如によって自己存立できなかった人々が、オウム真理教という「物語」を求めたのではなかったか。ポストモダンの標語を思いだすまでもなく、私たちはつねに物語の喪失を感じながら、小さな物語を身のまわりにうち立てて生きてゆくしかないのである。

 

●付記

日本の同時代の作品をひとつ選ぶとすれば、私は迷うことなく『ゴールドラッシュ』を選ぶ。物語、描写、主題、どれをとっても自分の心身にしみわたる本書については、いつかまたなにかを書きたいと思っていた。それゆえもう一度テクストにふれ、書き残してあった文章をもとに考えをめぐらせ、ふたたび作品の意義を問いなおす機会をもてたのは幸いである。それにしても読んでいて本当に苦しい小説である。

先日サラマーゴの『白の闇』を読み、こんなところまで書かなくていいのに……と眼を覆いたくなった体験も然り、『ゴールドラッシュ』もまたそのような気持ちをひき起こすものであろう。しかしそれが自分のすぐそばで起きていたリアルであるからこそ、私は本作に書かれた主題を自分の問題としてひき受けることにした。あまり他者にすすめたいとは思わないけれど、ここには関係の病がひき起こす現代の病理、孤独のゆくすえ、そういったものが鋭く切りとられており、決して眼をそむけてはならないと言われたような気がした。カミュの『異邦人』であったように、理解できないものを寄ってたかって排斥するのではなく、辛抱強く見守り、その背景にあるものを見出す想像力をもつことこそが、今の私たちに求められているのではないだろうか。