ワザリング・ハイツ ~本館~

Something childish, but very natural.

名刺代わりの小説10選

f:id:SengChang:20200530232826j:plainTwitterハッシュタグで「#名刺代わりの小説10選」というちょうどよいものがあったので拝借。文学作品ではなく小説、となっているところがやや残念だが、10冊と言われて挙げるとこうなるのか、とリストを自分で見て妙に納得してしまった。前置きはこのくらいにして順にコメントを付してゆく。

 

 ●多和田葉子『飛魂』

kandliterature.hateblo.jp

ここ数年間に読んだ日本の小説のなかで最も完璧に近いと感じた小説。これまで多和田が書いてきた言語と言語のあいだにゆらぐ感覚、固定化された意味がゆらぎ次々と崩れてゆく美しい風景が存分に描かれた一冊と言えよう。あらためて省みることもないあたりまえの常識が思いがけず覆されるとき、むしろ私たちは私たち自身の歴史でもって物事をいきいきととらえ返し、新しく見出してゆく体験に至る。本書で頻出する存在しない二字熟語の数々は、その字面から豊かな、しかしある一定の枠組をもったイメージを立ちあがらせ、日本語がいかに漢字に支配された言語であるのかを思いださせてくれる。そして言うまでもなく『飛魂』は文学についての文学作品である。血を流しながら文学とともに生きる人間であればだれしもが手許に置いておきたくなる一冊であるにちがいない。

虎の道と言っても、その原典は全三百六十巻、夜更かしして月の兎影をながめ、徹夜明けて書斎の窓から朝露をながめ、白髪が頭を覆うまで読書に専念しても、読み通すことはできない。それに、一度読んだだけでは意味を表わさない部分が多いので、初めから終りまで通読しても意味がない。人に尋ね、尋ねられ、穴につまずき、落ち、這い上がり、病み、振り返り、思い出し、人と語り合うことによってしか、近づいていくことのできない部分が多いように思う。書物に記された順番は、わたしたちの頭にそれが吸収される順番とは一致しない。人の頭の中はどうやら、本のページや書架のようにはできていないらしい。(中略)書物を朗読する時には二行を同時に読むことはできない。行を下から上へ読むこともできない。出来るのは、繰り返し読むことだけである。読んでいるのが自分なのか他人なのか分からなくなるまで、繰り返し読む。

 

フェルナンド・ペソア『不穏の書』

kandliterature.hateblo.jp

昨年、私はふたたびペソアを見出した。まるでランボーの詩のようだが、これは本当のことである。以前読んだときにはあまり響かなかったペソアが、数年経って読みなおしたおりに深く心に突刺さった。まるでカミュのように、世界をあるがままにただ受容れるべきだ、とペソアは言う。しかし詩人である彼は、受容れる際に様々なペルソナを用いた――表現の際に、ではない。ここがおもしろいところで、ペソアは世界を享受するその瞬間瞬間にペルソナをかぶり、別々の人格として世界をうちに取込むのである。すでにそこからペソアの文学ははじまっている。そのようにして色とりどりの鏡をもって世界を映し、そのまま言葉としてあらわしてゆくのがペソアの詩的世界である。私たちがそれを美しいものとして愛せるのは、ペソア独自の言葉によって彩られてはいるものの、それがまぎれもなく私たちの棲む世界そのものだからだろう。ペソアを愛するひとが諸手を挙げて彼を賞讃するわけが私にもようやくわかった気がする。疑う余地なく、ペソアは今後の私の人生において特別な存在でありつづけるだろう。

人生とは、私たちが造り上げたなにかだ。どんな旅も、旅人たち自身だ。私たちが見るものは、見られたものではなく、私たち自身でできているのだ。

 

谷崎潤一郎吉野葛蘆刈

kandliterature.hateblo.jp

対偶関係にある作品として理解してよい『吉野葛』と『蘆刈』。谷崎の最高傑作として一冊挙げろと言われれば躊躇なく私はこの二作を挙げる。個人的には『蘆刈』の方が好きだが、執筆当時に日本文化の見直しに着手した谷崎の試みを十全に感じとることができるのは、やはり『吉野葛』ではないかと思う。和辻哲朗オギュスタン・ベルク、樋口忠彦といった諸家がとらえたように、昔から日本文化には“奥”に神聖を据える傾向が見てとれる。『吉野葛』は、奥吉野にあそび、日本のミステリーラインに属する吉野の歴史と伝承を紐解きながら、もうひとつの日本の文化的淵源でもある“家”の理に分入った確信犯的小説である。日本の物語の要素としておよそ考えうるものを詰込み、有機的に結びつくさまを愉しみながら、ここまで複雑怪奇な物語を書きあげた谷崎はやはり超一級の作家にちがいない。ノーベル文学賞の選出に際してドナルド・キーンがまず谷崎の名を挙げた理由がよくわかる。近代日本文学の作家として私が愛してやまない作家である。

此処が自分の先祖の地だ。自分は今、長いあいだ夢に見ていた故郷の地を蹈んだ。この悠久な山間の村里は、大方母が生れた頃も、今眼の前にあるような平和な景色をひろげていただろう。四十年前の日も、つい昨日の日も、此処では同じに明け、同じに暮れていたのだろう。津村は「昔」と壁一と重の隣りへ来た気がした。ほんの一瞬間眼をつぶって再び見開けば、何処かその辺の籬の内に、母が少女の群れに交って遊んでいるかも知れなかった。

 

柳美里『ゴールドラッシュ』

kandliterature.hateblo.jp

現代日本文学から一冊選べと言われれば、私はやはりこの一作を選ぶ。河合隼雄が諸手を挙げて認めたというのもよくわかる魂の一作と言えよう。ロシア文学についての講義で、ドストエフスキー罪と罰』の父殺しと救済の主題を『ゴールドラッシュ』のなかに見た、と聞いて私は本書を手にとった。両者の主題をくり返した文学作品はとても多いが、その主題を抜きにしても、『ゴールドラッシュ』は群を抜いている。この物語は異常という健常、あるいは健常という異常を書いた物語だと思っている。本作の人物たちはみな私たちの共有する常識を常識として受容れられなかった人々であり、世の中で盲目的に掲げられる常識に抗いつづけた人々である。私たちの眼に彼らは異常で病的に映るが、そもそもそれはだれの眼から見ての異常なのか、私たち自身は決して異常ではないと言いきれるのかと、紋切型の価値は次々と転覆されてゆく。常識と迎合できない人間が疎外され、静かに狂ってゆくしかないこの世の中こそ、本当の意味で狂っていると言えるのではないか。ちなみに柳美里河合隼雄の対談はYouTubeにあがっている。

何十年も前のことだ、金本は黄金町のスナックの二階で馴染みの娼婦を抱いたあと、赤ちゃんができたの、あんたの赤ちゃんよ、明日堕ろすわね、と軽く明るく告げられた。空に上がる打ち損じのテニスボールのような声だった。あの娼婦は客でも友人でもない他者と性以外の物語でつながりたかったのだ。いま切実に他者を求めている自分もまた、だれかと物語を共有したいと願っているのか。この子と罪の物語を?

 

ジュール・シュペルヴィエル『海に住む少女』

kandliterature.hateblo.jp

悲しみのあまりひとを骨抜きにしてしまう作品というのは多くあるが、ひととして欠くべからざるものを前にうつろな気持を抱かせる作品もある。シュペルヴィエルの『海に住む少女』はそんな物語のひとつであろう。海に浮かぶ小さな島にひとり生きる少女は、なぜ自分がそこにいるのか、自分がだれなのかもわからない。あるのは習慣だけであり、少女からは思考そのものが抜けおちている。たとえ自分が寂しいと感じていても、彼女はそもそも寂しいという感情が存在すること自体を知らないのである。ここで語られているのは、なにものにも心を動かされない深い悲しみであり、言葉に載せるべきもの、すなわち"心"を見つけることのできない人間の姿である。また、ふたつの国の狭間で生きたシュペルヴィエル自身の、言語と心の関係が主題として垣間見える作品でもあった。いわゆる大人の児童文学に分類してもよい、切ない傑作短篇である。

沖合いで、手すりにひじをつき、物思いにふけるそこの水兵さん、夜の闇のなかで愛するひとの顔をじっと思い浮かべるのも、ほどほどにしておいてくださいな。あなたのそんな思いから、とくに何もないはずの場所に、まったく人間と同じ感性をもちながら、生きるも死ぬもままならず、愛することもできず、それでも、生き、愛し、今にも死んでしまいそうであるかのように苦しむ存在が、生まれてしまうかもしれないのです。なんのよりどころも持たない存在が生まれてしまうかもしれないのです。

 

夢野久作ドグラ・マグラ

kandliterature.hateblo.jp

小説10選としてここに名を挙げながらも、この小説についてはいまだわずかばかりしか書けていない。もはやなにを書けば自分のためになるのかがよくわからない。翻ってみるならば、言葉にするとき混迷を極める作品こそが名作、とでも言えるかもしれない。本当にわけのわからない小説である。本作のおそろしいところは、私の自己同一性が他者によって握られているとする点であり、私にしか語りえないはずの私の歴史的自己が、他者によって次々とあばかれ、自己がばらばらに解体されるさまが描かれるのである。自己同一性をめぐる精神病理学的物語は今でこそ世界中に溢れているが、20世紀初頭の日本において、精神病理と自己の主題を扱った小説は、おそらく夢野久作の『ドグラ・マグラ』がはじめてなのではないだろうか。なにを真実とするかという、ニーチェや木村敏が提示した自己の根源的な問いかけは、『ドグラ・マグラ』のなかでもつねに響いていると言わねばならない。小栗虫太郎黒死館殺人事件』、中井英夫『虚無への供物』とともに、日本三大奇書とも言われる興味深い小説である。*どこをひいたらよいのか検討もつかないので引用は割愛させていただきます。

 

ポール・オースター鍵のかかった部屋

kandliterature.hateblo.jp

オースターの名を世に知らしめた「ニューヨーク三部作」の三作目。『ガラスの街』『幽霊たち』も文句なしにおもしろいが、この『鍵のかかった部屋』だけは格別であると言いたい。作中にある一節「たしかに息をしなければ死んでしまう。しかし同時に、息をすれば死んでしまう("surely a man cannot live if he does not breathe. But at the same time, he will not live if he does breathe.")」がこの物語のすべてを語っているのではないか。自己存立のために「私」は書きつづけるが、書くことが逆説的に自己崩壊を招くという、自己同一性の矛盾をよくあらわした小説である。この矛盾的同一は物語の至るところに形を変えてあらわれる――追求めれば求めるほど遠ざかる友人の真実、自己実現に近づけば近づくほど他人の人生を生きている心地がしてくること――私たちを息苦しくさせてやまない、この世に溢れかえる矛盾をむきだしにするのがオースター文学である。翻訳のお化け柴田元幸の訳も贅沢で心地よいが、原文は抜群に切れ味がよく、どこかでうっかり引用したい美しい言葉に満ちている。

My true place in the world, it turned out, was somewhere beyond myself, and if that place inside me, it was also unlocatable. This was the tiny hole between self and not-self, and for the first time in my life I saw this nowhere as the exact centre of the world.

 

アンナ・カヴァン『氷』

kandliterature.hateblo.jp

数年前から日本で相次いで翻訳が刊行され、再評価されはじめたイギリスの作家である。レッシングが高く評価したという彼女の文学は、現実と非現実が溶けあう色が強く、しかし幻想文学と片づけるにはあまりにも豊かな作家だと言わねばならない。モダニズムマジックリアリズム、SF、ポストモダニズムと様々な枠をあてがうことはできるが、カヴァン文学の本質は描写にこそあると私は思う。驚くほど精緻で美しい描写にひとたびふれれば、物語などそっちのけで心身ともに一息で呑込まれてしまうことだろう。小説は描写がすべてである。世界中の文学作品のなかで私が最もすばらしいと思う描写はカヴァン作品のなかにある。万華鏡のように幻想的な少女を追いつづけ、氷の下に崩壊してゆく世界のなか、同じように男の自己も崩壊してゆく救いがたさは、つめたく心に閉込めたカヴァンの内界を思わせてならないが、またすべてを凍りつくさなければ世界はどうにもならないという、現代に向けての黙示録的提言でもあると考えられる。イギリス留学時に私の文学を大きく変革してくれた一作であり、翻訳が再版されるずっと前から読んでいたため、有名になりつつあるのはうれしい一方、自分だけが知る作家として秘密にしておきたかったひとりでもある。

Despairingly she looked all round. She was completely encircled by the tremendous ice walls, which were made fluid by explosions of blinding light, so that they moved and changed with a continuous liquid motion, advancing in torrents of ice, avalanches as big as oceans, flooding everywhere over the doomed world. Wherever she looked, she saw the same fearful encirclement, soaring battlements of ice, an over-hanging ring of frigid, fiery, colossal waves about to collapse upon her. Frozen by the deathly cold emanating from the ice, dazzled by the blaze of crystalline ice-light, she felt herself becoming part of the polar vision, her structure becoming one with the ice and snow. As her fate, she accepted the world of ice, shining, shimmering, dead; she resigned herself to the triumph of glaciers and the death of her world.

 

橋本紡半分の月がのぼる空

kandliterature.hateblo.jp

kandliterature.hateblo.jp

もともと電撃文庫で発売されていたが、外伝や後日譚を除く本篇をあらためてまとめなおし、文春文庫から再出版された。本作を単なる不治の病ものとして見ているのであればそれは大きな間違いである。中高生にも読んでもらいたいシリーズでありながら、一仕事終えてたそがれはじめた大人にこそ読んでほしい、珠玉の作品でもある。大人と子供を截然と隔て、子供だからと口をつぐんであきらめていた裕一が、そういった方便をかなぐり捨て、大切なものを守るために言葉をつむぎつづける姿は強く胸をうつ。そして医師夏目は、そんな裕一と里香の姿に自分と妻の過去を重ね、病と向きあう子供を見守り自身の過去と対峙する。大局的に見れば、守るために捨てること、これが大きな主題のひとつだと言えるかもしれない。文春文庫版を読み終えたら、そのまま電撃文庫版の6巻を手にし、ぜひ最後まで読み通していただきたい。

  だけど、山西の不安さえ、僕はうらやましかった。僕はそういう不安を抱くことはない。なぜなら、僕はずっとここで暮らしていくからだ。この狭い空を、見慣れた勢多川を、どんどんしょぼくなっていく駅前を、神宮の森を・・・・・・そんなものだけを見ながら生きていくのだ。
  僕は他のどこにも行けない。いや、行かない。東京よりも、人込みよりも、でっかいビルよりも、大切なものがここにあるからだ。(電撃文庫版6巻)

 

●メアリー・シェリー『フランケンシュタイン

kandliterature.hateblo.jp

私の選ぶ英文学史上の最高傑作はメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』である。本作を素材に廣野由美子先生が『批評理論入門』を書いたことからもわかるように、文学史上のあらゆる主題が互いに深く響きあう、筆舌に尽くしがたい傑作だと言える。フランス革命後に訪れたヨーロッパの深い失望、正義の偽善や旧家の没落といった当時の同時代的な主題に、断絶した非連続の自己の主題、分身(quasi-double)、投影の問題、さらには世の常識や法、道徳といったものが次々と解体され、崩れてゆく世の無秩序といった、現代的な主題も一考に値する。共存しえない価値が乱立する世にあって、互いが互いの論理を呑込み共倒れするさまは、まさに現代を予示した物語と言ってよいのではないか。なにより"Kid A"が誕生したと言われる現代において、あるいはひとの知性が込められた機械をつくりだす時代にあって、200年以上前にひとならぬひとの生命倫理について疑義を投げかけた『フランケンシュタイン』は現代においてこそ再評価されてよいはずである。文学に従事して十数年、最も影響を受けた一作であり、生涯をかけて読みつぎたい作品のひとつでもある。

You, my creator, would tear me to pieces, and triumph; remember that, and tell me why I should pity man more than he pities me? You would not call it murder, if you could precipitate me into one of those ice-rifts, and destroy my frame, the work of your own hands. Shall I respect man, when he contemns me? Let me live with me in the interchange of kindness, and, instead of injury, I would bestow every benefit upon him with tears of gratitude at his acceptance. But that cannot be; the human senses are insurmountable barriers to our union.

 

●付記

大学時代に読んだものは一冊もなく、すべて研究生活に入ってから手にとったもので占められている。どれもくり返し読みなおしたものばかりで、頁が焼けていたり、よれていたり、表紙に破れがあったり、線や書込みで余白がほとんどなかったりと、私とともに歳をとってきた経過が窺えるものばかりである。まさに名刺代わりとはこのことで、今の自分をつくったのはここにある言葉ですと、自分の本棚を見せるのにこれはよく似ている。

多くの文学愛好家と同じように、数千冊を越えるであろうなかから、小説作品だけとはいえ、10冊のみを選びだすというのはかなり無理な話だと思った。泣くなくはずした作品をここで供養しておくと、村上春樹『ノルウェイの森』吉本ばなな『白河夜船』、ゲーテ『若きウェルテルの悩み』、シャーロット・ブロンテ『ヴィレット』、ジャネット・フィッチ『ホワイト・オランダー』といったところだろうか。これから先、また5年、10年と経ったおり、あらためて私の10冊を選ぶとして、自分がなにを手にするのかは今からとても楽しみである。自分をばらばらに解体し、大きく変革してくれるような物語に出逢えることを、これからも楽しみにしておきたいと思う。