ワザリング・ハイツ ~本館~

Something childish, but very natural.

アルベール・カミュ『シーシュポスの神話』を読む

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哲学を学ぶにはどうしたらよいかを考え、結局それらしい手掛かりを摑みはじめたのは『シーシュポスの神話』を読み終えてから8年以上経った20代の終わり頃であった。そこで木村敏の精神病理学に出逢い、西田幾多郎の哲学を敷衍した現存在分析を学び、それを物語に援用して読みはじめた。だからこそ私の哲学の祖は木村敏であり、また西田幾多郎である。それは今も変わらない。

10代の終わりから精神病理の主題がつねに頭の片隅にあり、大学時代はそれを頼りに文学を読んでいたが、ある程度歳がいってバランスがとれはじめたおりに、自分の心の問題を一度体系的に理解すべきだと思い至った。そこで私はふたたび自殺の主題と向きあうことになった――あらためて向きあってみても、自殺が深刻な主題であることに変わりはなく、だからこそ20歳のときに私はカミュを手にとったのだろう。

「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ」と本書ははじめられている。果たしてこのような書出しではじまる文学作品がそれまでにあっただろうか。死の主題を近からず遠からず見つめながらも、最初から身を寄せて最後まで寄りそいつづける作品は、ほかに例を見ないのではないか。

「人生が生きるに値しないからひとは自殺する」という考えを自明としながらも「自明の理なのだから、真理とはいっても不毛な真理である」とカミュはこれを斥ける。

自殺はそれなりに不条理の解決となる。自殺は不条理を同じひとつの死のなかに引きずりこむ。だがぼくは知っている。不条理が維持されるからといって、不条理が解決されるということはありえないのだということを。不条理とは死を意識しつつ同時に死を拒否することだというかぎりにおいて、不条理は自殺の手から逃れ出てしまうのだ。(「不条理な論証」)

ひとはいつか死ぬと、この世が不条理であると「意識する」こと、西田の言葉を使うならば「自覚」に至ることこそが、不条理であるとカミュは言う。そしてなぜそれが自殺を斥ける結果になるかと言えば、自殺には必ずや論理の飛躍が隠されているからだという。すなわち、身を捨てるまさにその瞬間まで、自らの死の動機や意義を徹底して論理的に突詰めた人間はいないだろうというのである。自殺する人間は必ずや、カミュの言葉を用いるならば「思考の自殺」をしており、考えることを放棄し、身を投げてしまう。だからこそ、不条理である世のありさまをありのままに受けとめ、シーシュポスのように不断の働きで自らの生を生きよとカミュは書いた。これをヒューマニズムと呼ばずになんと呼ぼうか。カミュが自殺を斥けるのは、眼の前の現実に取組みつづける意志によってであり、これはたとえば同じ実存主義として名の挙がるカフカの文学的態度とは大きく異なる。

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Oxfod Dictionary of Literary Termsでは不条理について"[The absurd] often applied to the modern sense of human purposelessness in a universe without meaning or value."と説明されている。実際にカミュは『シーシュポス』のなかで不条理について次のように説明した。

不条理という言葉のあてはまるのは、この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死物狂いの願望が激しく鳴りひびいていて、この両者がともに相対峙したままである状態についてなのだ。(「不条理な論証」)

私たちはこれまでも不条理と対峙してきたし、現在も、そしてこれからも、不条理のなかを生きなければならない。これまでカミュを読んだ読者が不条理とはなにかをあいまいにしか理解できなかった理由は、私たちが生きるこの世の理と生そのものが、まさに理解しがたいものであるからにほかならない。それは当時ヨーロッパを支配していた、心を統合的に把捉し理解できるという合理主義の立場に、根本的な疑義を突きつけるものでもあった。あるいはそのような無責任な思考が世界大戦を誘引し、また人々の自死を促すものであったとは想像に難くない。

不条理の前に立たされたとき、ひとはどうすればよいのか。およそ秩序というものからほど遠い理解不能な世の中を、ひとつの貫徹した論理で包む必要はない。ここで「反抗と自由と多様性」をカミュは要求する。彼はひとつの事象をひとつの意味のなかに押込めておくのではなく、画一化された常識や道徳に抗い、その外に出て自由に意味とたわむれ、物事を複眼的にとらえる価値を説くのである。

統一を断念する思考は、すべて、多様性を賞揚する。そして、多様性こそ芸術の場だ。精神を解放する思考とは、精神をして、自分の限界と間もない終末とを確信させたまま孤独な状態に打棄てておく思考以外のものではない。この精神はいかなる教養にも動かされない。この精神は作品と生との熟成をじっと待つ。やがて作品は成熟して精神からはなれ落ち、魂も希望から永遠に解放されるだろう・・・・・・。(「不条理な創造」)

ここでカミュポストモダン的視点をもって、中心のない円に連なる多様性を奨励する。この世に在ること、世界に幽閉された立場にあってもなお、そのなかで無限に広がる――ドゥルーズ+ガタリリゾームのごとく――物事の連なりを未来の可能性として、希望をもって生きることができるとカミュは言う。現代において、「無意味である」ことに対し、多くの人間が効率化を説き、できる限り無意味をとり除こうとするなか、カミュはこの無意味こそが人間を豊かにする手掛かりだと見ている。「無意味である」ことは意味がないことではなく、意味が溢れてしまうために画一化できないことを指す。そのような作品をカミュは不条理な芸術作品と呼び、そこから不条理な世の中を生き抜く術を学ぼうとする。ドストエフスキーの『悪霊』やカフカの作品、あるいは彼自身の『ペスト』や『カリギュラ』といった作品から、私たちは不条理のなんたるかを学ぶべきなのではなく、不条理な世の中をありのままに受けとめ、そのなかにただよう自由に気づくべきなのである。

 

●付記

guardian.ng

『ガーディアン』からはこんな記事が出ていた。『シーシュポス』は1955年に出版された作品であり、実に65年も前の哲学的散文であるが、現代に求めるべき強さをここから学ぼうとするイギリス人の気概を見習うべきではないか。『ペスト』ではなく『シーシュポス』を出してくるところがまたよい。

『ペスト』の記事につづいて『シーシュポスの神話』について書いたが、これまで書きたくてなかなか書けなかったのを、腰を据えて読みなおしたら驚くほど素直に書けた。読んでからそれだけ長い年月が経ったということなのか。10年以上前に読んだ本をふたたび手にとり、あらためて考えなおす歓びを嚙みしめているところである。この記事に着手した時点で「カミュ三部作」なるものを掲げ、最後に『異邦人』について書こうと決めた。とても無謀な試みながらも、私の手元にはあの心強い文献、ベルナール・パンゴーの『カミュの「異邦人」』があり、実際にこれが大きな助けとなったことをここに記しておく。

⇒アルベール・カミュ『ペスト』を読む - ワザリング・ハイツ ~本館~

⇒アルベール・カミュ『異邦人』を読む - ワザリング・ハイツ ~本館~

*引用はすべて「清水徹訳『シーシュポスの神話』新潮文庫、2004年」による。また本記事を書くうえで参考にしたよいサイトがあったのでここに付しておく。

www.sparknotes.com

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