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Something childish, but very natural.

アルベール・カミュ『異邦人』を読む

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「異邦人」と打って最初に出てくる予測変換(google)は「カミュ」ではなく「歌詞」である。言うまでもなく久保田早紀の名曲「異邦人」である。歌詞には「あなたにとって私/ただの通りすがり/ちょっとふり向いてみただけの/異邦人」とある。「異邦人」についてのこれだけ明晰な説明がほかにあるだろうか。見事なものである。

サルトルによる『異邦人』の解説はとても有名らしく、そのなかで彼は、『異邦人』はまさに『シーシュポスの神話』で論じられた人間の生を理論的に具体化したものとして考えうる、と『異邦人』を激賞している。また近年のフランス小説のなかで『嘔吐』に並ぶ傑作だとロブ=グリエが賞したり、戦後一番の古典小説とロラン・バルトが讃辞を送ったり、ヌーヴォー・ロマンの旗手ナタリー・サロートが本作に着目したことで、『異邦人』がヌーヴォー・ロマンの先駆的作品に解されたりと、本作はつねに時代の大きな話題をさらってきたと言える。のちにカミュノーベル文学賞を受賞するが、多彩な才能がひしめくフランス文学界においてカミュが選ばれたというのは、彼の作品が単に読者を絶望の底に突落とすべく厳しく現実を映すのではなく、その現実においてどう在るべきかを真摯に描きつづけたからにほかならない。

『異邦人』は簡潔で短い物語ながら、非常に混入った主題を含み、時に理解しがたい言動を淡々と語りだした小説である。ムルソーという名前についても、『異邦人』の前身とも見なされる作品『幸福な死』におけるメルソーと対にされ、mer(海)+ soleil(太陽)やmeaur(死)+ soleil(太陽)と考えられるなど、作者カミュの熱の入れようが伝わってくる。ムルソーから感じられる無関心(apathy)は、世界大戦を経たのちの世界に対する失望感をあらわしたものとも言われ、語ることが無意味であり、その気力すら湧いてこない、当時の人々が直面したうつろな時代の空気も紙背から滲みだしてくる。

「異邦人」とは果たしてどんな状態を言うのか。まず思い浮かんだのは日本の排他的な村社会のことである。つながりというものを第一に考える日本の村社会は、そこに属さない外様の存在を忌嫌い、なかなかうちとけない傾向が強い。これは和辻哲郎の回でも述べた通り、日本が「うち」と「そと」とを截然と分け隔て、「うち」に緊密な同一化傾向を抱く伝統があるからだが、ここで注目すべきは、「うち」によってとり除かれた「そと」の人間がいることである。これがいわゆる「異邦人」と見なされる。

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自分たちの共同体に属さない者、自分たちと同じ法に準じない者は、共同体から等しく拒絶される。では共同体が世界で、そこから排斥される人間がたったひとりだとしたらどうだろうか。その人間は世界から排除されてしまう。まさにムルソーが見せしめのごとく処刑されるように。母親の埋葬で泣かない人間はだれでも処刑されうる社会、というカミュ自身の言葉が示すように、社会にとって理解しがたいものを排斥しようとする極度に排他的な“共感”社会がここには形成されている。ムルソーが「ルールを守らない」から排斥する*。これは非常に危険な思想だが、私たちの周囲にありふれたものであることも認めなくてはならない。*ベルナール・パンゴー『カミュの「異邦人」』より

異邦性をもったものははじめから異邦人なのではなく、異邦だと定義する秩序が人々のあいだに共有されてこそ成立するのである。母の死顔を見ようともせず、涙も見せず、翌日に女と映画に行って寝るような人間を、周囲の人々はだれも理解できず、不気味な存在と見なす。小説の第二部では、ムルソーの殺人についての公判が行われるが、本人が口を差挟む間もなく、あるいは彼にそうする権利がないかのように、ほとんど当人を介さず彼の人間性や事件の動機についての推察が行われる。「いわばこの事件を私抜きで、扱っているような風だった。私の参加なしにすべてが運んで行った。私の意見を徴することなしに、私の運命が決められていた」とムルソーはまるで他人事のようにその様子を見物する。そして人々が彼の行動を論理的に説明しようとするのを聞きながら、そうした説明がもっともらしいので文句を差挟むことができない、とあきらめてしまうのである。

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ここで私たちの感じる違和感は、ムルソーが自分の行動を理路整然と言葉で説明しないことから発している。しかし実際は説明しないのではなく、説明できないのである。なぜアラブ人を殺したのか、彼は周囲が納得するように語ることができない。ムルソー自身にも理解できないものを、まったくの他者が、彼らの論理で徹底的に論証しようとするこの茶番が、第二部で展開される裁判だと言える。ひとは非合理的なものをそのままにしておくことができず、執念をもってそれらしく合理的に説明をつけるか、無残にも切捨ててしまう。この場合はもっと深刻で、他者の魂に合理的な理屈をつけ、そのうえで滅ぼしてしまうのである。裁判のなかほどで、検事がムルソーの魂と道徳観念を決めつけてかかるところはなかなか傑作であり、それに周囲の人間が同調してゆくおそろしい様子が淡々と描かれる。

ムルソーという人間は、彼をとりまく人間にとって理解不能な異邦人というだけでなく、彼自身にもとらえきれない異邦人なのである。しかし彼は、偽善的な検事や弁護士が言ったように、無関心で心のない人間ではなく、むしろ親切で勤勉なごく普通の人間である。「いつでもこれから来るべきものに、たとえば今日とか明日とかに、心を奪われていたのだ」と彼は語り、つねに眼の前のものへと深い情熱を注ぐ。

しかし私は自信を持っている。自分について、すべてについて、君より強く、また、私の人生について、来るべきあの死について。そうだ、私にはこれだけしかない。しかし、少なくとも、この真理が私を捕えていると同じだけ、私はこの真理をしっかり捕えている。私はかつて正しかったし、今もなお正しい。いつも、私は正しいのだ。

この独白で彼は自身が立脚するものが眼の前のふれることのできる現実であると断言してみせる。司祭のちらつかせるあるかないかもわからない希望などではなく、今自分の呼吸するものを唯一の現実として握っていること、そこに理屈など必要のないことを滔々と説くのである。彼の眼には「今ここ」しか映ってはおらず、そこには無限の可能性が秘められている。ムルソーは「私はこのように生きたが、また別な風にも生きられるだろう」と確信する。

私はこれをして、あれをしなかった。こんなことはしなかったが、別なことはした。そして、その後は? 私はまるで、あの瞬間、自分の正当さを証明されるあの夜明けを、ずうっと待ち続けていたようだった。何ものも何ものも重要ではなかった。

司祭に対してムルソーは「何人も等しい」と主張するが、それは司祭の言う言葉とはまったく正反対の意味をもつ。悔い改めればみな等しくゆるされるのではなく、悔い改めるという行為を選択する自由がだれしもに与えられているという点に彼は重きを置く。それをしようがしまいが、そのあとの結果とその行為とは切りはなされている。ベルナール・パンゴーも指摘する通り、ここにはパースペクティヴの問題が潜んでいる。ムルソーの行動原理は、他者のそれとはまったく異なっており、人々はその非合理性をあくまで“自分たちの合理性のなかで”説明しようとする。手前勝手な論理のなかに相手を組入れてしまう、これは植民地主義的な手続とも言えるであろう。
『異邦人』におけるムルソーは、レヴィナスが言ったような、自己にとって絶対的に他なるものとして描出される。一方で人々は、そこを立脚点として、自らの生きる論理を集団で正当化しようと試みるのである。そのため絶対の他者を自らのパースペクティヴにひき込み、恣意的に理解すると、社会の安穏、あるいは社会における自己存立を保つために、絶対の他者を排斥する。正義に見える彼らの論理は、マイノリティーの生を否定し、消し去った上に成立つ事実を省みようともしない。くり返しになるが、『異邦人』でカミュのあばきだした社会の様相は、本当におそろしいものだと言わねばならない。現代に至るまで、あらゆる場所でくり返されてきた善の仮面をかぶった悪は、不条理と名を変えたところで、絶望的なものにはちがいない。

 

●付記

まさかこの歳になってカミュ三部作についてなにかを書くことになるとは思いもしなかった。大変贅沢な時間を過ごしたように思う。

新型コロナウイルスによってカミュがふたたび日本で、世界で注目を浴びるというのは皮肉な話でもあるが、古い文学によって現代を映しなおそうという姿勢こそ、今を生きる私たちに求められることではないだろうか。そのようにして文学作品は、幾度も開かれ、後世に残されてゆくのである。文学に携わる私たちが言葉にして文学を語り、これまで人々が残してきた多彩な叡智を、書物を通じて語りつたえてゆかねばならない。

高校から大学にかけて読捨ててきた本をふたたびとりあげ、思考をめぐらせながら丁寧に読みなおすのはいいものである。十数年前にひいた下線や書込みを頼りに、昔の自分が作家と語らった軌跡を追いつつ、あらためて言葉をとらえ返す歓びは筆舌につくしがたい。文学とともに生きてきてよかったと心から思う瞬間である。

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