ワザリング・ハイツ ~本館~

Something childish, but very natural.

イルマ・ラクーザ『ラングザマー』を読む

 f:id:SengChang:20200617080349j:plain

 

ゆっくりと生きるための本であり、ゆっくりと生きる場面に本と文学の風景を見た、ラクーザの洞察が光る名著である。本のための本と言えば思いつくのは、『ヘッセの読書術』であったり、『時間のかかる読書』、『冬の夜ひとりの旅人が』、松岡正剛の著作くらいのもので、私はほとんど「本についての本」を読んでこなかったと最近になって気がついた。しかしラクーザの本を読めばすぐにわかるけれど、「本についての本」を、本を読まない人間が読んでもなんの得もない。むしろ「本についての本」がなにを言いたいのか、どんなにすばらしい感動をつたえているかがわかるのは、本を読む人間だけなのだから。

スイス人であるが、母親はハンガリー人で、創作言語はドイツ語だが、母語ハンガリー語だと言う。そのほかにもフランス語やロシア語、セルビアクロアチア語も操る。彼女を「スイス文学」や「ドイツ文学」のように分類することに意味はないが、強いて言うならば「ヨーロッパ文学」ということになろう。研究者であり、翻訳家であり、作家というよりも文学者と言った方がふさわしいかもしれない。しかし彼女の選ぶ言葉、飾り気のない美しい文章は、まぎれもなく作家のそれであり、読みはじめるなりあっという間にひき込まれてしまう。冒頭はこんなふうにはじまる。

本を一冊、手にとって読んでみるといい。そのあと何が起こるか、あらかじめ精確に予測することはできない。しかし、読書は私の心をとらえ、私はそれにすっかり魅了されてしまう。私はどのように苦しいことも乗り越えてその物語についてゆき、時間や日常生活、自分のまわりの世界を忘れる。ともに熱狂し、苦しむ。そして、感動した文やとまどった文の下に鉛筆で線を引く。前にあったことを確かめるためにページを繰って戻り、好奇心を満たすために先のページをめくることもある。私は完全に集中し、本のことしか頭にない。幸せな気持ちだ。私のなかのすべてが、お願いだからこのままにしておいて、この時間が永遠に続けばいいのに、といっている。(「一.読書(愛)」)

山口裕之氏のすばらしい訳も手伝って、またラクーザの引用する様々な作家たちの名前や作品にも強くひかれ、私たちはテクストの奥へ奥へと誘われる――いつの間にか文学の波にすっかり身をゆだねている。私たちはラクーザの言う「もっとゆっくり(langsamer)」とした時間のなかにおり、言葉や段落、頁を往ったり来たりしながら、引用された作家名や作品名を書きとめ、時に調べたりもしつつ、一度読んだ作家に出逢った際にはなつかしく昔を思いだし、そしてふたたび本文に眼を戻す――『ラングザマー』を通じて読者は「もっとゆっくり」を経験し、「もっとゆっくり」を経験できる者だけが『ラングザマー』という書物を愉しめるのだと知る。

f:id:SengChang:20200617082558j:plain

Inger ChristensenやPeter Waterhouseといった日本語に翻訳されていない作家の作品にもふれることができるのは大きな魅力である。

f:id:SengChang:20200617082606j:plain

Oskar Pastiorの詩。

f:id:SengChang:20200617082612j:plain

ラクーザはしきりに「いまここで」を大切にせよと語る。「今ここ」とは、フッサールハイデガーにとっての基点となるものであったが、まさに「今ここ」に投げこまれた私から世界を描きなおす物事のとらえ方である。私は私自身を通してしか世界にふれることはできない。世界にふれながら自己の位置を探り、秩序を描きなおしてゆくこと、それを急いではいけないこと、時間をかけて世界のなかに沈みこむ自分を愉しむこと――ラクーザはそのような世界との「もっとゆっくり」としたふれあいをまさに文学によってとらえ返してゆく。

何もしないことと思われているものが行為になるということ、スローダウンが刺激(運動)になるということ、これはまさにパラドックスだ。ラテン語のotium(余暇・自由な時間)とnegotium(仕事)が韻をふむということも、もしかするとまったくの偶然ではないのかもしれない。(「七.ゆとりの時間(メルヒェン)」)

ゆっくりと時を過ごすことが文化的豊かさをもたらすと様々な作家が指摘する。ラクーザもまたそのひとりであった。なにもしないこと、「何もしないことと思われている」こと――たとえば本とのたわむれにおいて、あるテクストから別のテクストへ、つれづれなる散歩をつづけながら、言葉を通してみがかれてゆく自己を目の当たりにするかもしれない。またインゲル・クリステンセンやペーター・ハントケの詩をひきながら、私たちの心がありのままの自然と結びつくさまを、彼らの言葉を介してたどり、「近代技術と加速によって脱魔術化された世界を再び魔術のように魅了する媒質としての詩・文学」をとらえようと言葉をつむぐ(「三.自然(何もしないこと)」)。そのようなやり方で本と付きあうラクーザにとって、そして同じように文学と付きあってきた私たちもずっと感じてきたように、特別な一冊との出逢いは次のような言葉で語られる。

私があなたを読むようなしかたであなたのことを読む人は他には誰もいないと私は本に語りかける。すると本は答える。私があなたに与えているものが何かを知っているのはあなただけ。いまでもそうだが、私は自分の本を他の人にはどうしても貸したくない。どの本とも一つの(あるいは私の)愛の物語があり、ある本のカバーを見るだけでその本のストーリーだけでなく、そのストーリーとどのように私が関わったかということが呼び起こされるからだ。(「一.読書(愛)」)

 

●付記

多和田葉子のあとがきを読んだだけで無性になにか書きたくなってしまう。書店でここを立読みしたなら、たちまち本書の購入を決めてしまうことだろう。多和田は「読書を通して、別の時間の流れ方を知る」ことこそ本書の主題なのだと書く。ここに一節ひいてみよう。

暴力的な情報にふりまわされ、溺れそうになりながら生きるわたしたちは、本の中に何百年も何千年も保存された言葉を一つ一つ手にとって吟味することで、居場所をつくることができる。(中略)過去に書かれた言葉を注意深く読むことで、自分の時間の流れをつくることができる。ゆっくりとした時間、ゆっくりしているけれども過去へ未来へと何千年も跳躍できる力強い「遅さ」である。文学を読むことによってそういう時間が得られるのだ、という当たり前のようで難しいことを、この本はしっかり伝えてくれる。

なぜ文学が必要なのか。なぜ物語が必要で、詩が必要で、言葉を読み、言葉をつくして語ることが必要なのか。そのひとつの答はここにある。むだなことはむだではない。なにもしないことはなにもしないことではない。一見なんの役にも立たないものが、長い時間をかけて私たちをみがき、育み、生きるための強さをくれるのである。この本を読んで、自分が文学をつづけてきた理由があらためてよくわかった気がする。

またラクーザは本書のなかで、様々なヨーロッパの作家の作品を引用しており、邦訳が出版されていない作家も多く、そういった意味でも私たちにとってこれは貴重なテクストではないか。ペーター・ウォーターハウスやインゲル・クリステンセンなど、彼らの文学にふれるだけでも本書は手にとる価値のある一冊だと思う。