ワザリング・ハイツ ~本館~

Something childish, but very natural.

『ウンガレッティ全詩集』を読む

f:id:SengChang:20200621215518j:plain

けれどもあなたの民衆も
ぼくのことも生み落としたのは
同じ土地
イタリアだ

そしてあなたの兵隊と
同じ服を着て
ぼくは休んでいる
まるで父親の
揺り籠にいるみたいに(「イタリア」)

『ウンガレッティ全詩集』が岩波文庫から出るという夢のような出来事が起こったのは2018年4月のことである。単に文庫化されるだけでなく、この重要な詩人のすべての詩篇が収録され、しかも詳細な解説まで付してあるというところにも、私は驚いてしまった。河島英昭の訳文と解説は、ウンガレッティをはじめて読む者にとって手となり足となり、貴重な読書体験に力を添えてくれることだろう。

ウンガレッティは戦争を書いた。彼は従軍とともに詩人としての才能を開花させた。最前線において詩の種を育て、のちに細々と咲かせていった。20世紀に入り、戦争と文学とはつねに人々の意識からはなれぬものとなったが、「戦争文学」と端的にあらわすのはあまり好きではない。かのウィトゲンシュタインのように、ウンガレッティは戦禍のなかで思索に耽り、詩を書きつづけた。彼の見つめた情景を思い浮かべることなしにその詩を読むことはできない。ウンガレッティの選ぶ美しい言葉の背後には、絶えず鳴りやまない砲弾の音があり、戦地に倒れた人々の亡骸がある。

そのようなウンガレッティの詩の原点は、あらゆる詩篇で散見される流浪の姿であろう。エジプトで生まれた彼は、精神的故郷であるイタリアの地を踏むまでに長い時を経ている。

新しい
土地に
出会う
たびに
かつて
慣れ親しんだ
おのれを見つけては
ぼくは
やつれてしまう(「漂泊の人」)

この詩はのちに書かれた「旅」という詩とほぼ同じである。彼は“祖国”という考えでは自身をうまくとらえらず、「無垢の土地」という言葉を使って異郷に自分をなじませようとする。

どこにも住みつけない
新しい土地へ来るたびに過ぎ去ったぼくの心を見つけてしまうから
見知らぬ者となってそこを引払う
あまりにも生きながらえた時代から生まれ変わって
人生の初めの一瞬だけを楽しむのだ
ぼくは無垢の土地を探している(「旅」)

「漂泊の人」はイタリア語で書かれ、「旅」はフランス語で書かれた。興味深いのは「旅」が「戦争」と題された詩群に属する詩だということである。生まれ育ったエジプトを脱し、イタリアを経てフランスで学び、外国の戦地へ赴いたウンガレッティは、まさに「漂泊の人」である。去って久しい故郷も、その故郷ほどには知らない母国イタリアも、教育を受けたフランスも、彼は自分の心の拠りどころとして定められずにいる。そのように詠った詩がそのまま「戦争」に位置づけられる意味を考えなければならない――「ぼくらはみな秋の木の梢の葉にそっくりだ」(「兵士たち」)と語られる兵士、すなわちウンガレッティは、戦いのためだけに赴いた土地で自らをうまく位置づけることができずにいる。その土地は自分とはなんの関係もなく、ただ他人を殺し、友人が殺されてゆくのを見るだけの土地である。梢の葉のように大地に命を散らせて死んでゆく惨状を見つめながら、彼自身もいずれは散り、忘れ去られる身として戦地を「漂泊」せざるをえない。

漂う各所で眼にする光景は、言葉どころか世界の音や色が入りこむ隙のない「鉛」に満ちた世界である。

花瓶と岩石とが砕けて火矢と火口に群れ飛ぶ
この暴虐に太陽は花々しか添えない
激情の野営地に湧きだして舞う口づけ
蒼天は真珠母色に乱れて
爽やかな微笑みがぼくを星空に結びつける(「夏の夜」)

戦場を書いたウンガレッティの詩には静謐がある。激しい銃声はまるですべての音をかき消してしまうかのようだ。「真珠母色」に染まる空は、鉛色に染まる空、砲弾や弾丸の飛交う鉛に乱された空である。鉛の海に沈み、轟音の静けさに満たされた夜の戦地の激しさが、詩のなかに浮かびあがる。「すべては虹色の火花に解けてゆく」(「閃光」)。そういった前線を渡り歩き、彼は戦地で死んでいった人間を、彼が踏んだ土地を、見た情景を、詩に刻みこんで決して忘れはしない。

彼の口は
満月に向かって
歯ぎしりし
彼の手は
流れる血を
ぼくの沈黙のなかに
滴らせてきた
ぼくは書いた
愛にあふれる手紙を

かつてこのときほどまでに
かたく命にぼくは
しがみついたことがなかった(「通夜」)

 

●付記

親友を失った詩人というと、即座にテニスンを思い浮かべる。彼は親友ハラムを失い、10年以上の歳月をかけて傑作『イン・メモリアム』を生みだした。独自の形式メモリアムスタンザを普及させた名詩は、エリザベス女王にも愛されるなど、後世まで広く長く読みつがれている。ウンガレッティについてもまた、親友を失った経験は詩作に大きな影を落としたと言われる。

イタリアの未来派に属した詩人であるからなのか、広く読まれているという印象はない。日本ではいまだ知名度も高くないばかりか、研究書も数えるほどしか出ておらず、世界の文学を代表する詩人が日本で読まれていない現実がここには垣間見える。日本の文学研究者はかなりがんばっていると思うのだけれど、そもそも日本の一般層に、海外の詩を読もうという気概がほとんどないのだろう。ヨーロッパに限らず、世の中にはすばらしい作家がたくさんいて、出自も育ちも異なる様々な背景をもった彼らの人生は、作品と切りはなしてもなお学びに値するものばかりだ。そういった点から文学作品に近づいてもよいのではないか。

ちなみに私がウンガレッティを知ったのは、オースターのエッセイThe Art of Hungerにある"Innocence and Memory"を読んだときである。ウンガレッティの詩を全部読んであらためてこのエッセイを読むと、オースターの引用する詩を見て、やっぱりこれをひくよね、とうなずいてしまうことだろう。こちらのエッセイには日本語に翻訳されていない詩人も多く紹介されており、大変愉しく読んだ。柴田元幸による翻訳『空腹の技法』があるので、日本語で読むならそちらを参照されたい。

苛酷な現実を生きながらも、あたたかなまなざしを忘れなかったウンガレッティの詩からは、戦争があくまで彼の生きた一風景として見えてくる。それが特別なものとしてではなく、日常的なものとして詩に組込まれてしまっていることが、後世の私たちからすれば異常な現実として映るのである。彼の言葉の内側に隠れた無残な死の数々が、彼の文学を美しく彩っているというのも、考えてみればおそろしいことでもある。それはなぜなのかを考えることは、私たちが戦争と平和について考えるひとつの切口ともなろう。それゆえウンガレッティのような詩人が広く読まれる世の中になってほしいと私は切に願う。

詩人はそこまでたどりつき
歌をたずさえて帰ってくる光のなかへ
そして撒きちらすのだ

その詩から
ぼくには残る
尽きない秘密の
あの虚しさが(「埋もれた港」)