ワザリング・ハイツ ~本館~

Something childish, but very natural.

『エミリー・ブロンテ全詩集』を読む

 

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ブロンテ家の住んだ村ハワースは、リーズから電車で20分ほどのキースリー駅から、さらに20分ほどバスで丘をのぼった先にある。この場所を訪れるために私はリーズという町を留学地に選んだのだが、広大なハワースの荒野は想像以上で、丘と丘とが眼の前で互いに肩を寄せあうようにしてうねり、重なりあうさまは、大地はたしかに生きているのだと私に強く感じさせた。エミリーが詩に詠ったのはこんな情景だったのかと、直接肌でふれてようやく納得するものがあった。

自然だけを主役としてこれだけ詩を書いた作家はほかにいないのではないか。それほどまでにエミリーの詩は自然の生に満ちている。自然が舞台なのではなく、自然が主役であり、主題なのである――彼女にとって自然は真の自己であり、想像力であり、自己を矛盾的にはらむ宇宙そのものであった。次のリチャード・ベンヴェヌートの一節はエミリーの詩的世界を実にうまく言いあらわしていよう。

In Emily Brontë's poetry, exile or imprisonment symbolizes the state of the soul when it cannot pass beyond confining limits of its own existence, and when it can only glimpse but not participate in a larger existence, a spiritual or universal force that is its true identity. (Benvenuto 60)

身体を牢獄だと言ったのは『嵐が丘』のキャサリン・アーンショーだが、それはエミリー自身の心を代弁したものでもあった。精神は身体に閉込められ、自分はこの世の異邦人であり、精神の世界を表象する自然のなかへいつでも還る準備ができている。代表的な詩篇"The Prisoner"などに書かれているように「幽閉(imprisonment)」は彼女にとってつねに切実な問題であった。

So, if a tear, when thou art dying,
Should haply fall from me,
It is but that my soul is sighing,
To go and rest with thee. (G115 "Stanzas")

 

ですから、あなたが死にゆくとき、もし涙が一粒

おもわず こぼれたとしても、

それはわたしの魂が 憧れているからにすぎません

あなたとともに逝き 安らぎたいと。(鳥海久義訳)

この世の牢獄から脱し精神を解放つ死の瞬間を待ち望んだ詩は数えきれない。しかし囚獄からの解放とは言うが、時には自然が監獄になってしまうこともある。自然とはあくまでこの世界であり、それがどんなに想像力と結託しても、肉体の牢獄から精神を解放つことはできない。それゆえ詩の語り手はときおり自然に背を向ける。"To Imagination"では想像力の助けを借りて語り手は自然をやんわりと遠ざける。

Reason, indeed, may oft complain
For Nature's sad reality,
And tell the suffering heart how vain
Its cherished dreams must always be;
And Truth may rudely trample down
The flowers of Fancy, newly-blown:

But, thou art ever there, to bring
The hovering vision back, and breathe
New glories o'er the blighted spring,
And call a lovelier Life from Death,
And whisper, with a voice divine,
Of real worlds, as bright as thine. (G150 "To Imagination")

 

痛ましい「自然」の実相を

「理性」はしきりと嘆き、

悩んでいる心に その抱いている夢が いつも

いかに空しいかを 語るかも知れない。

また 咲きでたばかりの 空想の花を

「真実」が乱暴にも 踏みつけるかも知れない。

 

だが あなたは何時もそこにいて

彷う夢を呼び戻し

萎れた春に 新しい栄光を与え

また 死から さらに美しい生命を呼び戻し、

神々しい声で あなたの世界と同じ

輝かしい真の世界を囁く。(鳥海久義訳)

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エミリーの生まれ育ったハワースの荒野。

この詩では自然という外なるもの(world without)と想像力という内なるもの(world within)が截然と区別され、対比される。自然が外なるものである以上、それは精神とともに想像力を閉込めてしまう牢獄となりうる。それでも、たとえば"I see around me tombstones grey"のように、自然を魂の故郷ととらえ、そこに棲まう自分は天など求めはしないと強く主張したりもする*。大地は不滅であり、大地に還る私もまた不滅である。*ここはキャサリンの言葉「この世は私の故郷ではない気がする」という言葉と響きあう箇所。

We would not leave our native home
For any world beyond the Tomb.
No-rather on thy kindly breast
Let us be laid in lasting rest
Or waken but to share with thee
A mutual immortality ― (G124 "I see around me tombstones grey")

 

わたしたちは 故郷の家をあとにして

墓の彼方の いかなる世界をも 求めたりはしない。

いや――むしろ あなたの優しい胸に抱かれて

永遠の眠りに就かせてほしい。

でなければ 目を覚まし あなたと

互いの不滅性を ともにさせてほしい。(鳥海久義訳)

ここでは自然と精神の同一化が高らかに詠われており、自然は想像力や精神を解放するものとしてもとらえられる。このように外なる自然が内なる精神と同一化したり、逆に精神を疎隔する外なるものと見なされたりするのは、本来的に自然が矛盾的性質をもつからにほかならない。外界が内界に流れこみ、内界は外界に包摂される。外と内が融解するエミリーの独特な思想は『嵐が丘』においてもくり返し語られたものであった。

エミリーはこの主題を"Why ask to know the datethe clime?"でも鋭くとらえている。

Why ask to know the date ― the clime?
More than mere words they cannot be:
Men knelt to God and worshipped crime,
And crushed the helpless even as we ―
(G168 "Why ask to know the date-the clime?")

 

なぜ その時代を――その国を 知りたがるのか。

それらは 単なる言葉でしかあり得ない。

人々は 神に跪き 罪を崇め、

まさに わたしたちと同じように、無力な者を踏み潰した。(鳥海久義訳)

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Janet Gezariの文献は、エミリーの詩の研究には重要な手掛かりとなる一冊。

最後の一行は「わたしたちと同じように、無力な者を踏み潰した」、あるいは「無力な者を、わたしたちのように踏み潰した」のどちらにも読める。このように書くことで、ジャネット・ゲザリが指摘するように、エミリーは「被害者と加害者を同化させている("Brontë assimilates victims to victimizers.")」とも言えよう(Gezari 65)。彼女は人間のもつ矛盾、偽善を果敢にあばきだすが、これはフランス語で書かれたエッセイ「蝶("The Butterfly")」のなかにも「破壊の原理(a principle of destruction)」としてあらわれており、彼女が早い時期からこのような矛盾の性質に着目していたことがわかる*。『嵐が丘』においても、ヒースクリフは被害者でありながら加害者でもあり、荒野を表象しながらもまた文明をも表象するなど、相反する要素が一体不二の関係を築いている。*これは先に引用した"To Imgination"の"Nature's sad reality"という言葉とも響きあう。

自然の詩人として端的に理解されがちなエミリーだが、彼女の洞察は驚くほど鋭く、また時代を先取りしてもいる。矛盾が矛盾のまま受容れられ、互いの価値を存立不能にしてしまうさまは、まさに一意的な価値の崩壊という現代的な主題と言ってよい。この点からエミリーの詩を読みなおしてみると、自然や想像力といった彼女特有の主題以上に、人間の心身の問題を現実的にとらえた彼女の文学的才能を見ることができよう。

<Works Cited>

Benvenuto, Richard. Emily Brontё. Boston: Twayne, 1982.
Brontё, Emily. Emily Jane Brontё: The Complete Poems. Ed. Janet Gezari. London: Penguin, 1992.

鳥海久義訳『ブロンテ全集10』「エミリ・ブロンテ」みすず書房、1996年

 

●付記

ずっと書こうと思って書いていなかった記事。2年以上前にエミリーの詩を読みなおし、ノートをとっておいたのだが、頭のなかで主題の整理ができていなかったために書くのをやめてしまった。何度もくり返し読みたい詩を拾う作業も含め、今回やや時間をかけて考えをまとめることができたのは非常によかった。これまで扱いかねていた、エミリーのテクストがもつ現代的な主題について、一応の見通しがつけられたと感じている。ここに書けなかったことが多くあるものの、それについてはまたあらためてどこかで書きたいと思う。

嵐が丘』はたしかにこれからも読まれるべき古典ではあるが、やはりエミリーは詩人であり、彼女の詩こそ広く読まれてほしいと私は強く願っている。エミリーの文学は詩篇において多様に展開されており、ここに彼女の宇宙がある。お気に入りの詩はたくさんあるが、よい翻訳が手に入りづらいこともあり、なかなかひとにすすめることができず、とても残念でならない。ちなみに、もし翻訳を手にとるならば、ブロンテ全集に入っている『詩集』の巻、鳥海久義訳を強くおすすめする。また原典は主に三種類、古くから参照されるHatfield版と、近年の論文で最も多く参照されるChitham版、そして今回ここで扱ったGezari版(Penguin Books)がある。ここではくわしく立入らないが、個人的にはGezari版をおすすめしておきたい。私も長いことこれを愛読している。

⇒エミリー・ブロンテ『嵐が丘』を読む - ワザリング・ハイツ ~本館~