ワザリング・ハイツ ~本館~

Something childish, but very natural.

イタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』を読む

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カルヴィーノと出逢ったのは大学院の文学理論についての授業であった。ポストモダンをテーマに掲げ、様々な文学理論がポストモダンから逆探知されてゆく授業の後半、具体的なポストモダン作品を読んでいこうと、5、6冊の小説をみなで読んでいった記憶がある。そのうちの1回がイタロ・カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』だった。そして私はそのとき授業休み、この小説を読んでいない。正確には、読まなかったから休んだのだ。

それから数年経ったのち、ふと思い立って英訳版を手に入れた。しかし第2章からがあまりにも読みづらく、すぐに投げ、それからまた5年以上の歳月が経った。そしてようやく私はこの本を読み終えることができたのである。

第1章がすべてを物語っている。小説を読むとということ、また小説をとり巻く周辺、小説とはなにかという問、さらには物語を書くと言うこと、あるいは作品のauthorityの問題など、meta-referenceを小細工に、文学作品をめぐるあらゆる問題がひとつに織込まれている。一言であらわすならば、文学についての文学である。そして小説を読む小説という物語が小説たりうるのかという実験的な試みから本作が生まれた。この作品をどう評するかははっきり言ってとても難しい。ウンベルト・エーコの言葉を借りるならば、本書は「カルヴィーノのもっとも美しい書物のひとつ」であるという(『小説の森散策』和田忠彦訳、岩波文庫)。私がふたたび、みたび本書を手にとったのも、エーコのこの言葉があったからなのである。

私にとっても私の読むべき本はすべて唯ひとつの本へと導かれるんです。(中略)でもそれは私の記憶に先立ってひとつの物語があり、そしてすべての物語がそのこだまを帯びているように思えるのですが、そのこだまはすぐ消えてしまうのです。(第11章)

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カルヴィーノの作品にふれたエーコの著作。

またカルヴィーノの古典についての講義は、本作と響きあうところも多い。

この一節には本書の肝要がかなり凝縮されている。中断され、断片化され物語が、非連続の連続として次々連なるさまは、本から本へ、物語から物語へとよりおもしろいものを求めて彷徨う私たち自身の読書体験として理解できる。膨大な読書体験を重ねてゆくうちに、私たちの心のなかにいつの間にか形づくられた「理想の小説」というものに気づき、それに近い、あるいはそのものと言える作品をいつしか追求めるようになる。そのような本をめぐる旅が『旅人』で描かれる物語なのだ。

『旅人』のなかで展開される小説についての洞察は、本作が出版された79年当時でも、もはや新しいものではなかったはずだ。しかし「物語」がいかに読まれているのかをあらため、疑問を呈し、これから小説がたどるであろう道すじを“小説のなかで”ためつすがめつ眺めているのはとてもおもしろい。ここで本書のなかで最も響く一節をひいてみたい。おそらく文学を愛するひとであればだれしもがうなずく言葉ではなかろうか。

私には読書の、滋養に富んだ読書の刺激が欠かせないんです、たとえどの本もほんの数ページしか読み進めなくともです。でもその数ページの中にだけでも私にとっては究めることのできない全宇宙が含まれているのです。(第11章)

中断されるテクスト、前もうしろもない断片化されたテクストとは、それがひとつの物語という全体の一部を成すと仮定して、はじめて出てくる物の見方のひとつでしかない。しかしそもそものはじめから全体などないとしたらどうだろうか? たとえばペソアの『不穏の書』を考えてみればよい。小話の乱立する『不穏の書』には全体というものがない。そんなものはだれも知らないし、ペソアだけが知っていたのかもしれないし、もともと存在しないのかもしれない。全体を欠いた言葉や物語を故意に並べることで、私たちの読書を遡及的にとらえ返し、ありふれた小説の読み方をカルヴィーノは風刺する。プロットや結末ばかりに眼を奪われ、すじをたどることだけに命をかける読者――言葉を吟味しながら一文一文を手のひらに載せて味わい、テクストとたわむれたり、無邪気に語らったりすることを忘れた読者を、彼は痛烈に皮肉っているのである。

それゆえカルヴィーノはわざと読者を攪乱する手続を踏み、絶対に再構成不可能な物語を語ってみせる。作中人物の語ることが彼らの読む本のなかにテクストとしてあらわれ、それがまったく予期しない別の事実をうつしだし、さらに謎を探求して情報をたぐり寄せると、まるで彼らをはぐらかすかのように別の本があらわれる。しかしその本のテクスト外の事実を突詰めると、ふたたびその事実が閉込められた本を読む羽目になる、といった具合である。テクストの内外を往ったり来たりしながら、内が外になったり、外が内になったりがくり返される。この本が書かれた経緯、構成、結末が途中で語られるが、実際の本書の結末は、作者の構想とはちがったものになっている。しかも書簡体、意識の流れ、ヌーヴォー・ロマンの二人称、信頼できない語り手、異化といった、これまでの文学史で生みだされた様々な手法であそぶカルヴィーノのいたずら心が、私たちをさらなる混乱の渦に陥れる。

また読むことのほかに書くことに関する思弁が展開され、出版したはずのない作品の翻訳版なるものが作者のあずかり知らぬ国で出版されていたり、既存の小説の翻訳版がまったく異なる作品を翻訳したものであったりと、小説のauthorityの問題も次第に話題の中心となる。存在しない作品の模倣、すなわちオリジナルの存在しないコピー、あるいはコピーがオリジナルを踏越えてしまうシミュラークルの主題などは、円城塔の「道化師の蝶」、「松ノ枝の記」でも強くうちだされた主題である。しかも「物語の父」なるものが出てくると、世の中に流布した物語はすべて「物語の父」がすでに語ったものであり、所詮すべてはコピーにすぎない、とまで言われたりする。このような問題提起、多岐にわたる主題についての論議、作中人物のやりとり、meta-reference、ときおり顔を見せる作者とのやりとり、この小説を読む私たちの読書体験、そういった営為全体が『冬の夜ひとりの旅人が』という物語だとカルヴィーノは言うのである。いやはやとんでもない小説である。

 

●付記

非常に疲れた。ようやくこれがどんな小説であるかわかったものの、ふたたび読返すことはない気がする。何度も読んで味わうには途中で挟まれる“断片”小説が退屈すぎた。しかしながら、これが79年に書かれたという時代的意義はやはり大きいと感じる。ポストモダン小説としての意義というよりはむしろ、小説をめぐる私たちの身近な問題をとりあげ、読者にそれについて語る素材を提供したのが驚きである。

私はメタという言葉がきらいで、メタという装置もきらいで、メタという言葉抜きで語りつくせるメタ小説しか認めるつもりはない。その意味では、カルヴィーノがここでとりあげた諸々の主題については、酒でも飲みながら時間をかけて話しあいたい気持ちになった。これがそのまま本作に対する私の評価となろう。いずれにせよ、10年近く心にひっかかったままの小説を、このたびようやく読み終えたのは非常に達成感がある。