ワザリング・ハイツ ~本館~

Something childish, but very natural.

ビオイ=カサーレス『モレルの発明』を読む

f:id:SengChang:20200726115613j:plain

 

あのボルヘスが序文を寄せ「これは完璧な小説である」と書いたにもかかわらず、あまり広く読まれているとは言えない埋もれた傑作である。実は私もほんの最近存在を知ったばかりで、買ってみたら訳者がなんと清水徹で驚いたという情けないていたらく。日本での刊行は1990年とかなり最近であり(私にとっては)、しかもこの翻訳はBABEL国際翻訳大賞日本翻訳大賞・文学部門を受賞したというとんでもない代物であった。それにもかかわらず、である。くり返し様々なところで言及されるということもなく、読むべき傑作のリストに本作が名を連ねたところを見た記憶もない。日本での認知度はいまだかなり低いものと思われる。

私はSFや推理小説の愛好家ではないため、つじつま合わせのような読み方をすることはほとんどなく、むしろそういった要素をすべて差しひいてもなおあまりある魅力をもつ小説こそ読むべき作品ではないかと考えている。『モレルの発明』はまさにそのような作品であったとまずは言っておきたい。それゆえここでは、本書の核心を無遠慮に書き連ねてゆくため、ネタバレが神経に障る方は、ぜひこれ以上は読み進めないでいただきたい。

日記体で語られ、物語全体は推理小説の形式をとっており、語り手自らが自分の状況の分析を進めてゆく。彼の言葉を頼りにしてもなお、語り手の状態を思い描くことは難しく、精神錯乱に陥っているふしもある。この島全体が精神病院(サナトリウム)なのではないかという言及や、自身の精神状態を疑う記述もあるものの、この日記の発見者であろう「刊行者」による記述もないため、すべてが語り手の妄想であると断定することもできない*。*しかし、フォスティーヌを口説くのに際し、非人間的な暮らしをする自身の身だしなみについてはまったく省みられておらず、そんな自分に彼女がふり向くだろうと考える語り手の精神は、とても正常な状態とは言えないのではなかろうか。

f:id:SengChang:20200726115359j:plain

ときおり左隅にあらわれる刊行者註は、語り手の矛盾を指摘したりする一方、読み手が求める情報をなにひとつ与えてくれない、不気味な註釈である。

無人島に突如あらわれた人々の集団を観察するうち、語り手は彼らが七日間を永久にくり返していることに気づく。人間を完全にうつしとり、自由に再現するという前代未聞の技術は、魂もうつしとるのだろうか、という疑問を生みだす。発明者モレルの、生命そのものについての立場は次のように語られる。

レコードに潜在的にひそんでいるもの、私がスイッチを入れ、蓄音機が作動すれば現れ出るもの、それを生命体と呼ぶことはできないでしょうか?(中略)いや、皆さんだってこれまで何度となく、ひとの運命についてみずから問いかけてきたのではないか、昔から変わらぬ問いを繰り返してきたのではないですか。――われわれはどこへ行くのか? われわれの生はいったいどこに埋もれているのか? まるで一度もかけたことのないレコードの音楽さながらに、神によって、生きよ、と命ぜられるまで、どこかに埋もれている人生・・・・・・。人間の運命と私のつくりだす像とのあいだには、どこか似通ったところがあるとお気づきにならないでしょうか?

「外側から捉えられた人間だけが現象する」映像は、やはり外側からしかとらえることができない。やがてあきらかになる事実は、うつしとられた人々がのちに死んでしまうというものだが、魂がうつしとられたかどうかはだれにもたしかめようがない。しかしコピーであるはずの映像は「たえず新たな人生を生きている」ようにも見える。その映像がコピーにすぎなくても、語り手はそもそもオリジナルを知らず、現実と見分けのつかないコピーだけが彼のリアルとなり、それは彼にとってオリジナルを超えた価値をもちはじめる。そして自らのフォスティーヌへの想いを成就させるため、語り手はむしろこの論理を逆手にとろうと考えつくのであった。

彼はモレルがかつて試みたのと同じように、フォスティーヌへの果たされぬ想いを、映像を通じて昇華しようと試みる。これまで幾度となく反復されてきた七日間のなかに、彼は別の異なる反復を埋めこもうと画策する――映像に合わせて行動する自分自身を撮影し、さも人々と“共時的に”存在しているかのような映像を、もうひとつ別につくりだして元の映像に重ねあわせる。この差異のある反復においてフォスティーヌと彼はまるで恋人どうしのように見える。そう見えるように、彼は自らを映像のなかへまぎれ込ませた。「未来は何度でも後退を繰り返し、いつまでも未来としての性質を保ちつづける」リアルのなかで、彼とフォスティーヌは永久に寄りそいつづける。だが言うまでもなく、ここには奇妙なねじれが見てとれる。

f:id:SengChang:20200726115355j:plain

本書を完璧な小説と評したボルヘスの序文が付されている。

フォスティーヌははじめから語り手にとってのまったき他者として在った。どこのだれかもわからぬ彼女は、まるで語り手がそこに存在しないかのようにふるまい――映像なのだから当然である――彼の実存を脅かすものでもあった。ここで言う他者とは、レヴィナスが想定したような「共通するひとつの概念にぞくする個体ではない」「絶対的に〈他なるもの〉」である他者である(エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限』「第Ⅰ部」)。それは「怪物的なまでに無垢な私を根源的な仕方で揺り動かすために近づいてくる」ような、自己を根底からゆるがす不気味な他者である(内田樹レヴィナスと愛の現象学』「第二章」)。フォスティーヌが映像であるとあきらかになったあとでも、それはまったく変わらない。むしろ語り手にとって彼女の他者性は強くなったと言ってよいくらいである。フォスティーヌは語り手にとって「すでに失われた」存在であることがわかり、そもそも彼と彼女はこの世で出逢うことすらできなかった現実があきらかとなるからだ。

映像に合わせて自分の姿を撮影することで、彼は自分があたかもそのなかの一員であるかのようなリアルをつくりだした。彼はフォスティーヌと共時的に“生きたかのように”残りつづけるだろう。ふたりが異なる時間に生きた人間であることは、おそらくこの映像を見る人間にはまるでわからないはずだ。とても興味深いのは、他者との関係、あるいは愛情とは、当人たちのあいだで成立するものであるにもかかわらず、語り手の望んだ彼とフォスティーヌとの関係は、当人たちの外から第三者によって「まなざされる」ことで成就される。あくまで「外から見て恋仲と思われる」ように仕組み、一人称的関係ではなく三人称的関係に、ふたりの関係を外化する(他有化させる)――そのような手続を踏んでようやく彼の望むふたりの関係は成立しうるのである。映像を見た者によって、一人称の「私」が三人称の「彼」へと変位し、はじめて「彼」がフォスティーヌと“ともに在るリアル”が実現する*。しかしこれはフォスティーヌがいかに彼にとって他者であるかを逆説的に強調する事実でもあろう。幸か不幸か、そのことに気づかないまま彼は死んでゆくのである。*これは映像に映る人間すべてに対して言えることでもある。モレルは「私たち」を「彼ら」に変位させることで楽園ができると考えた。

<引用文献>

エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限』岩波文庫、2015年

内田樹レヴィナスと愛の現象学』文春文庫、2011年

 

●付記

妙な小説に出遭ってしまった。最も奇妙なのは頁の隅で存在感を発揮する「刊行者註」であろう。しばしば語り手の記述を訂正するものの、刊行者がこの日記を刊行した経緯や、実際にこのモレルの発明を眼にしたのかどうか、映像の人々がいつの時代の人間であるかなど、すべてを調べたはずであるのに見事に記述を端折っている。信頼できない語り手の上にさらに信頼できない語り手を置くとは、推理小説のルールを著しく逸脱しており、よってこれは推理小説でもなんでもない。だからこそ本作はすばらしい。これは純粋な文学作品である。

再読したものを除けば、今年出逢った小説のなかでは最も楽しんで読めた小説だと思う。久々に心地よい気分を味わった。自分がものぐさなだけで、おもしろい小説は探せばいくらでもあるのだと思わせてくれる。ボルヘスも訳が合わず、マルケスも書棚に積んだままで、どうにもラテン・アメリカ文学に興味をもてなかったのだが、これが読書のきっかけになれば、と自分でも思っている。乱読だが偏読、というのは文学人にとって永遠の課題であろう。