ワザリング・ハイツ ~本館~

Something childish, but very natural.

ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』を読む

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池澤夏樹が編んだ世界文学全集にも収録されている一冊。英訳で読んで以来、実に八年前ぶりの再読。以前はこれをどう扱ったらいいのかがよくわからなかったが、このたび丁寧に読みなおしてみると、なるほど、これはすごい小説である。しかしクンデラの出してくる主題は私にとってあまり切実なものがなく(あくまで私にとって、である)、それは単純に私とクンデラの実存の地平がちがうだけだと思うが、それが私を長らくクンデラ作品から遠ざけてきたのだろう。

それでも大事な主題はたしかにあった。人間の生にいつの間にかひそむ矛盾や偽善は『存在の耐えられない軽さ』のなかでは“キッチュ”と結びついてあらわれる。松岡正剛も指摘しているが、本作を読んでいるとクンデラの手管によって“読まされている”感じがする。キッチュ批判を読みながら、キッチュとはこういうものなのかと納得し、その様子を指差されて「それこそがまさにキッチュだ」と言われているような気がする。そのようにいくら身構えてもうしろにまわりこまれてしまう危うさがある。この小説は、キッチュがいかに我々の実存を脅かすかについて書かれた、なかなかにおそろしい小説である。

語り手はキッチュについて次のように語る。

俗悪なものが呼びおこす感情は、もちろんそれを非常に多数の人が分け合えるようなものでなければならない。従って俗悪なものは滅多にない状況に基づいてはならず、人びとが記憶に刻み込んだ基本的な姿に基づいていなければならない。(中略)
俗悪なものは続けざまに二つの感涙を呼びおこす。第一の涙はいう。芝生を駆けていく子供は何と美しいんだ!
第二の涙はいう。芝生を駆けていく子供に全人類と感激を共有できるのは何と素晴らしいんだろう!
この第二の涙こそ、俗悪俗悪たらしめるのである。
世界のすべての人びとの兄弟愛はただ俗悪なものの上にのみ形成できるのである。(第Ⅵ部 大行進)*下線部は引用者。原典では下線部にはすべて「キッチュ」というふりがながつく(以下も同様)。

これこそが存在の耐えられない「軽さ」であり、小説冒頭に提起される「重さは本当に恐ろしいことで、軽さは素晴らしいことであろうか?」という問に対する応答である。フランツにとっての妻やサビナという存在の軽さ、サビナにとってのフランツと自身をめぐる"histoire"(物語=歴史)の軽さ、そういったものが彼らの自己存立を脅かしつづける歴史を、私たちは頁を繰りながら淡々と追いかけてゆくことになる。深刻だと思っていたものが実は軽く、風ですぐに吹きとんでしまう程度のものだったと知り、彼らは絶望したり、時に安堵したりする。サビナは「私の敵は共産主義ではなくて、俗悪なものなの!」と心のなかで叫びながらも「自分自身の中にそれを持ってはいないであろうか?」とすぐに問いなおしてしまう。キッチュを否定しながらも自分がキッチュなものを無意識に求めたり体現したりしているこの矛盾的同一は「たとえわれわれができる限り軽蔑しようとも、俗悪なものは人間の性に属するもの」であり、これを逃れることが難しいからこそ生じるものであった。重要なのは俗悪そのものではなく、俗悪であると知りながらもそれから逃れがたい、私たちの存在のありさま、社会のありさまの方である。

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『小説の技法』ではクンデラ自身が自作について語っており、作品理解を手助けしてくれる。

そして「歴史も個人の人生と同じように軽い」と言われ、個人の軽さから社会の軽さへ、チェコ共産主義や他国の政治が体現する軽さへと話が展開される。体制は同じイデオロギーで社会を束ねるために「非常に多数の人が分け合えるような」俗悪な言説を掲げて賛同を強制する。そしてみなが同じであることを個々人に強制し、それに従わない者を無慈悲に排除しようとする。『異邦人』において、ムルソーが社会から排除された手続と、これはまったく同じものである。トマーシュの新聞投稿をめぐる問題は、社会の連帯を強制する、このような排他的な言論統制の一環として起こったものだった。

「それはまったくナンセンスな話です」と、トマーシュは抗議した。「私が書いたものをちゃんと読んで下さい」
「読みましたよ」と、内務省の男はたいへん悲しそうな調子でいった。
「で、私は共産主義者の目を刺すべきだと書きましたか?」
「みんなそうとりました」と、内務省の男はいい、彼の声はますます悲しげになった。
「もし、私が書いた記事を全部読めば、そう思うことはありえなかったでしょう。すこし縮められて載ったのです」(第Ⅴ部 軽さと重さ)

トマーシュの文章は体制にとって都合よく切りとられて掲載された。しかし切りとられているとはいえ、それはまぎれもなく彼の言葉なのである。体制の改竄によって、トマーシュの言説は彼の意図をはなれ、異なる文脈のなかで異なる物語を語ることになる。みながそうとわかるような、体制にとって都合のいい「キッチュなもの」へと変位させられてしまったのである。同じことが現代においてもSNSで盛んに行われていることは言うまでもない。だれかの言葉を恣意的にゆがめてつたえること、そもそもゆがめている事実にすら気づないこと――両者にはぜひトマーシュのこの言葉を投げかけたい。「知っていたか、知らなかったか? は根本の問題ではない。知らないからその人が無罪? というのなら、王座にいるばかは、ばかであるがゆえに、あらゆる責任から解放されるのであろうか?」(第Ⅴ部 軽さと重さ)

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●付記

イギリス留学時、なにか毛色のちがうものを読みたいと思い、そうだクンデラを読んでいなかった、と書店に走ったのを覚えている。faberから出ている英訳The Unbearable Lightness of Beingは私でもわりとすらすら読める英語だったので立止まらず一気に読んだ。はじめてまともにクンデラを読んだのはそのときで、ほかの作品は積んだまま読んでおらず、頁を開いては本を戻す、みたいなことを何箇月かに一回行っている具合。『生は彼方に』はぜひ読んでみたいものの、『冗談』と『不滅』は厳しいかなあと思っている。『小説の技法』は必要があって部分的に読んだ。

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『存在の耐えられない軽さ』において最も印象に残ったのは、やはり投稿記事のくだりである。自身の言説が他者によってゆがめられるというのはあってはならないことだが、実際には日常的に起こる現実であり、インターネットが普及した今、私たちはそのおそろしさをもはや忘れかけている。そして匿名で、匿名のひとの言説をいじりまわし、なんの責任も負わずに平気で自分の言説に組込んだりする。そのおそろしさを知らないで済むのはそれはそれで幸せなことなのかもしれない。そういったことに対し意識的になればなるほど、言葉をすることができなくなるのも事実であり、二律背反とはまさにこのことではないか。“語る”というのはそれだけ「重さ」を伴う行為なのである。