ワザリング・ハイツ ~本館~

Something childish, but very natural.

フランツ・カフカ『審判』を読む

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カフカは、作家たちのなかでも、おそらくいちばんずるい作家だろう」と書いたのはジョルジュ・バタイユであった。カフカ焚書にすべきか、共産主義者のあいだで議論になったというのは私も知らなかったのだが、カフカの文学自体があいまいで摑みどころのないものなので議論が起こったということらしい。バタイユはこの一件について「彼は、決して尻尾をつかまれるようなことはなかった」と書いているが、この言葉はそのままカフカ文学の説明ともなろう。私たちはいつまで経ってもカフカの尻尾を摑むことができない。

はじめてカフカを読んだのは大学に入ってわりとすぐの頃だったと思う。また『審判』を読んだのは大学三年のときだと記憶している。その頃はカフカをいったいどう読めばよいのか皆目見当もつかなかった。難解というよりも、意味が解体されてしまったあとの残骸を見せられて、そこからふたたび意味を生成する必要性を感じなかった。眼にした情景以上のなにを語れと言うのか。私がカフカを読んだときに抱いた問はそのようなものだったと思う。しかし本質を摑ませないことこそが本質なのだとしたらどうだろうか。

言うまでもなく、意味が解体されてしまう場は、私たちの日常にはありふれている。なにかを問うどころか、そもそも問自体が成立しない現実が、「掟の門」の問答のなかでは鮮明にあらわされている。さらにカフカはこの寓話に僧侶とKの問答を付し『審判』のなかの一章とした。「掟の門」を基点としてデリダカフカ論を組立てたように、カフカ文学を理解するうえで掟の寓話は重要な手掛かりとなるのではないか。しかしそもそも「掟」とはなんだろうか。

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ドゥルーズ+ガタリの指摘するように「誰も法の内側を知ってはいない」のであり(87)、「掟の門」における「掟」、あるいは『審判』における「法」が具体的になんであるかはいっさいあきらかにされない。「法には認識の対象がないので、それは言表することによってのみおのれを規定し、処罰という行為においてのみおのれを言表する」からこそ(90)、罪状があかされぬままKが処刑されるにせよ、処刑されるというからには、そこには処刑を下す根拠となるべき「法」が必ず存在するはずである。少なくともそう考えねばなるまい――しかしそれはたしかだろうか。ありもしない罪を裁くための法などあるわけがない、と考えるべきではないか*。いいや、そう考えるのは当然である。*その一方で、罪があるのかないのかもまた、ここでは判然としない。そもそも処刑されるほどの罪とは果たしてどのようなものか。そのような罪に普遍性などあるのか。

これこそ「掟の門」で男が門番に訊くべき問であった。最後に門番は「これは君だけの入口なのだから、ほかの人間がはいらせてもらえないのも道理さ」と男に諭し、掟は男のためのものであったことをあきらかにする。しかも門番は冒頭で「そんなにはいりたければ、わしの命令に逆らって、はいるがいい」と述べており、掟の門がつねに開かれていることもあきらかである。これではますますなんのための「掟の門」なのかがわからない。しかし男は門の向こうにあるものばかりに気をとられており、肝心の足元を見ようとはしないのである。そして先に書いた通り、「掟」などそもそものはじめから存在しないかもしれないのだ。

はじめから答のない、空白の問題を問いつづけ、死んでいったKの現実から私たちはなにを問うべきだろうか。答があるのかないのか、問がそもそも問として成立しているのかどうかがわからない以上、私たちの“知る”という行為は無限に分節化されてしまう。『審判』はもちろんのこと、『城』や『変身』も、あるいは「巣穴」や「皇帝の使者」といった作品もまた“知る”ことを無限に分節化した作品である。私たちは、私たちが知ろうとしている内容の痕跡すら摑めない。そもそも内容などあるのかどうかすら確信がもてない。ボルヘスがここにゼノンのパラドックスとの相似を見たというのもうなずける(『カフカ短篇集』岩波文庫の解説より)。私たちはいつまでも問いつづけるばかりで、あるいは問のまわりをぐるぐるとまわってばかりで、いつまで経ってもその核心には踏込むことができない。
知ることから大きく隔てられた私たちは、ここで僧侶がKに対して言った「真実などを問題にしてはいけない。ただ、必然があるばかりだ」という言葉を思いだす。「掟」とはなにかという「真実」が問題なのではない、という意味に解するならば、私たちが問題にすべきは今ここに展開するこの状況ということになろう――門番と男は門という“閾”の上に立っている。境界を越えて門の内側を、あるいは掟を“知る”ことはゆるされない。また知ることの禁忌はここであえてくり返すまでもなかろう。そして“知る”ことは自己の大きな変革を伴う。

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しかしカフカは知の主題をもう一歩先に進めて投げかける。すなわち、知ることなしにも私たちの自己は脅かされるのではないか、という問いかけである。知ろうと試みるだけで、私たちは男のように実体のない掟に縛られ、自らの実存を脅かされてしまうのではないか。事実「掟の門」の男は、そして『審判』のKは、知ることを意志するなかで命を落としてしまうのである。得体の知れないもの、存在するのかどうかもわからないものに自己が脅かされる現実は、実は私たちにとってはとても身近な問題である。錯綜する情報社会のなかで、あるのかどうかもわからない、形のないものをたぐり寄せることは混迷を極める。求めたものが空白であるとわかれば、私たちの現実はよすがを失い、一挙に瓦解してしまう。カフカの文学は私たちのそのような現実を寓話的に描いたにすぎない。それはたとえばペソアの文学と同じように、カフカの言葉によって異化され、彼の言葉を通して私たちが自らの現実をとらえ返すからなのである。

<引用文献>
フランツ・カフカ『審判』本野亨一訳、角川文庫、2005年
ジョルジュ・バタイユ『文学と悪』山本功訳、ちくま学芸文庫、2008年
ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリカフカ――マイナー文学のために』宇波彰/岩田行一訳、法政大学出版局、2000年

 

●付記

カフカを読みなおそうと考えたのはここ10年ばかりではじめてのことだった気がする。きっかけはカミュを読みなおしたからなのだけれど、やはりカミュとは似ても似つかない作品を書く作家で、純粋に理解に苦しむ作家ではある。イギリス留学時に出逢った、非常に賢い文学好きの美しいスイス人が、カフカは暗くて嫌いだ、とものすごくいやそうな顔で言っていたのをなつかしく思いだす。私にとってカフカは彼女の面影とともにある。

本当にどう読めばよいかわからなかった作家であり、自分にとっての豊かな読み方を見つけられなかった作家であり、すなわちそれが長年にわたり私の再読を阻んでいたのだろう。このたび無理やり頁をめくりながら拾読み、またカフカについての文章にいくつかあたってみることで、こんな読み方ができるのかと驚く貴重な経験をした。最も驚いたのは、『審判』の本文余白に残された、過去の私自身の手による書込みである。そこにはカフカをどう読むべきかの手掛かりがすでに書いてあったのである! それに気づかず私は10年以上の時を過ごしたのかと思うとかなり虚しいが、それでもこうして気づいて物が書けたのだからよかったというものだ。今回もこんなつれづれなる言葉で稿を終えたいと思う。

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