ワザリング・ハイツ ~本館~

Something childish, but very natural.

山尾悠子『夢の遠近法』を読む

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私が山尾悠子の『ラピスラズリ』を手にとったとき、彼女の著作はまだそれしか文庫化されておらず、ほかの作品は絶版となって手に入れるのが難しかった。それから徐々に時間をかけて山尾の作品は復刻され、amazonの紹介作品としても頻繁に眼にするようになった。『ラピスラズリ』の冒頭を一読してその才能を確信したが、残念なことに、私の才能が欠けていたため作品は理解不能であった。その後、彼女の作品をいくつか手にとったものの、私の文学的才能はそのたびにことごとくうち砕かれ、それでも唯一闘うことのできた小説が「遠近法」であった。

「遠近法」は小説の題でありながら小説内に出てくる未完の小説につけられた題名でもある。「腸詰宇宙」なるものについて綿々と述べたこの小説は、語り手によって「彼」とのみ記された人物の書いた、一種の考察のようなものである。上と下の果てが見えない塔のような場所が腸詰宇宙であり、無限に階層化されたそれぞれの「回廊」に人々が住み、その不可思議な世界に対しなにもできずに想像だけを膨らませて生きている。腸詰宇宙は「遠近法の魔術によって支配されて」おり、「鏡世界の構造完璧に模している」とされる。上下のまったき対称性、そして太陽と月がそれぞれ下と上から上昇下降し、消失点に向けて消えてゆくさまを見た人々は、ウロボロスのように上下の果てはひとつに結びついていると確信するものの、たしかめてみる術はない。

山尾悠子の精緻な描写ゆえ、腸詰宇宙の構造を思い浮かべることはたやすい。それは彼女の描写がいかにすぐれているかの証左でもあるが、『ラピスラズリ』を読んだ際にはそれができなかった。ほかの山尾作品に通底する事実として、彼女もまたアンナ・カヴァンと同じように、再構成不可能な写実的描写を確信犯的に用いる傾向があるのだ。奇妙にねじれた冗長な描写は酔いしれてしまうほど美しい。しかし映像化を執拗に拒むがゆえ、山尾の言葉は私たちを言葉の迷宮へと誘う。それは山尾の作風を考えれば当然のことだとも言える。文体が物語を表象し、物語が文体を表象する。それはまるで作品によって文体を変えるイタロ・カルヴィーノのようでもある。

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「遠近法」へと話を戻そう。遠近法に支配された腸詰宇宙について人々が語る言説は、すべて私たちの住まうこの世界についての理ときれいに響きあう。私たちはこの世界の創始を眼にしておらず、この世界の外があるのかどうかもたしかめる術はなく、「今ここ」からしか世界を眺めることはできない。私たちにとって世界とは、遠近法的に構成された消失点をもつものであり、その先を「今ここ」から見はるかすことはできない。技術を用いて世界中の様子を間接的に見ることはできても、技術では到達できない場所の様子をたしかめることはできず、宇宙の果てや生の彼方は、いまだ私たちの“眼”の届かない場所にあると言わざるをえない。私たちにとって世界は「遠近法」に支配されている。

ところで、巻末に付された「自作解説」において、山尾は「書いている最中に「バベルの図書館」との(表面的な)相似に気づいて狼狽した」と書いている。小説の途中でも「バベルの図書館」については言及されており、おそらくこのあたりから山尾はボルヘスのこの作品を頭の片隅に置きながら執筆を進めたのだと推察できる。それゆえここで「バベルの図書館」についてふれないわけにはいかない。

ボルヘスの構想したバベルの図書館と山尾の腸詰宇宙との外見における相似は読めばすぐに理解できる。「その円周は到達の不可能な球体」であり、「図書館は永遠を超えて存在する」とされ、「図書館は無限であり周期的である」とも言われる。ボルヘスの鋭い洞察は「くり返されれば、無秩序も秩序に、「秩序」そのものになるはずだ」という言葉によくあらわれている。無秩序に反復される無限は、反復されるという秩序のなかに収まっており、その矛盾こそこの図書館が宇宙であるゆえんだとボルヘスは語る*。*引用は鼓直訳『伝奇集』岩波文庫より。

この息も詰まるような閉塞した図書館は腸詰宇宙そのものであり、私たちの世界そのものでもある。くり返される物事がこの世界のすべてを含みもつというのは美しい見方ではないか。世界は腸詰宇宙のように遠近法で切りだされた狭く小さなものかもしれないが、そこにはこの世の無限が広がっており、その無限でさえも秩序のなかにたたみこまれてしまうのである。腸詰宇宙は人々を塔の内側に閉込めるが、むしろ内側にこそ世界の無限が広がっている。皮肉にも、腸詰宇宙の人々はいつまでもそのことに気づかない。
それゆえひとりの少女の言葉で人々は我を失う。「私の生きた前世では、世界はこのように古く、疲れてはいなかった」と言い、彼女は「人々の眼に映るもののすべてを言葉に転換してみせた」。

聞き続けるうちに、人々は世界を眺める自分の眼が変化していくのを感じた。言葉という言葉を駆使して再構成されていく世界を、人々は同時にその眼で追っていった。そこに新しく展けていく宇宙の姿は、陰惨に疲労して、もはや救いがたい残骸のように消耗していた。この明白な事実に気づきもしなかった、昨日までの自分を人々は疑問にさえ思った。また前日までのそれに比べて、今朝の視界の光量は著しく減退し、陰気にくすんでいるように思われた。言葉の破壊力がそうさせたのだ。(「遠近法・補遺」)

他者の言葉によって自分の世界がとらえ返されると、人々は自身の置かれた現実に気づき、驚きを隠せなくなる。しかし少女の言葉はあくまで彼らが感じてきた世界の違和感を具体化したものにすぎない。作中において「世界は言葉でできている」と言われるのは、言葉にしなければ内側に閉じた遠近法の世界をとらえることができず、またその豊かさも把捉できないということであろう。「バベルの図書館」のように、宇宙を支配するのは言葉で語られたものであり、腸詰宇宙も無限の言葉で構築された世界である。語るからこそ世界は無限の様相を呈し、語るからこそ消失点が切りだされてしまうのである。そして私たちはつねに言葉で語られた世界の只中におり、言葉で語られる以前の世界を知らず、言葉で語られなくなる世界を知らぬままである。
小説の構造も小説そのものと同じように、はじまりと終わりを欠いてふっと途中で途切れてしまう。語り手の私は「彼」の原稿を読みながら、なぜ自分がここにいて、この原稿を読んでいるのか、読んでその後なにをしようとしていたのかを思いだすことできない。語り手は冒頭に戻っている。眼の前に原稿があり、自分がいる。作者である「彼」はおらず、それがだれであるのかもわからない。

誰かが私に言ったのだ
世界は言葉でできている
太陽と月と欄干と回廊
昨夜奈落に身を投げたあの男は
言葉の世界に墜ちて死んだと
(「遠近法・補遺」)


●付記

やっと山尾悠子について書くことができた。これまでどんなに試みてもまるで当たりがつかなかった彼女の小説について、ようやく読みの兆しが見え、思索をめぐらすことができた。今までそれができなかったのはただただ私の不勉強にすぎない。山尾悠子に私がどれだけ追いついていなかったのかは私自身がよくわかっている。

彼女の著作が次々と刊行されているのはとてもうれしい。本作と『ラピスラズリ』のほかに、『歪み真珠』も文庫化され、『飛ぶ孔雀』や『小鳥たち』も新しく刊行されている。なぜ次々と出版されているのかと思えば、泉鏡花賞文部科学大臣賞を受賞したからなのだと知った。長いブランクがあったらしいが、執筆を再開してからは精力的に作品を書いており、うれしい限りである。わりあい最近出逢った作家のような気がしていたが、なんだかんだ言ってもう七年くらいの付きあいらしい。これからも変わらず追いかけてゆきたい作家のひとりである。