ワザリング・ハイツ ~本館~

Something childish, but very natural.

アンリ・ミショー『精神の大試煉』を読む

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ミショーにメスカリンの使用を勧めたのはかのジャン・ポーランであったらしい。最近『O嬢の物語』について書いたところだったので、偶然の符合に驚き、奇妙なめぐり合わせを感じた。
なにはともあれアンリ・ミショーである。『精神の大試煉』は、ミショーがメスカリンを使用しながら書いた散文の一部、ミショーの文学が深く味わえる一冊だと言ってよい。私がミショーを知ったのは、大学で受けたシュルレアリスムについての講義のなかで、それから長らく放置していたのだが、5年ほど前にふと思い立って手にとったのが本書であった。大学のその講義自体は文学よりもアートに重点を置いた授業だったのだが、ミショーはそのどちらにも属する。詩を書き、散文を書き、絵を描く。彼の画集は日本でも古本で手に入る。
しかしミショーはまず第一に詩人である。ジッドが『アンリ・ミショーを発見しよう』という書物を書いたように、フランスの文学人からのミショーに対する評価は、ある程度確立されていたのではないかと推察される。『アンリ・ミショー詩集』のあとがきには「フランス本国ではすでに戦後最有力の詩人として認められて」いたとある*。前回とりあげたル・クレジオもやはりミショーに心酔していた。*世界現代詩文庫、土曜美術社
「精神の大試煉」とは、身体という煉獄に囚獄された精神のたどる宿命であろう。たとえばミショーは「彼は思考の中にまた入る。思考が彼の中に〈また入る〉」と書く。

ついさっきは、何度か、ながいあいだ無の前にいて、無以外のなにものにも直面せずにいて、(中略)正真正銘の白紙の状態で、彼はそこに存在していた。なにも、絶対になにも帰ってくるものが見られず、いかなるものもそこに帰ってきたしるしがぜんぜん見られないようなその場所に。(「Ⅰノーマルなことの不思議さ」)

これは「われに返るとは、どういうことか」という章の冒頭である。メスカリンによって無理やりに身体から心をひきはがし、心が身体に戻ってくる感覚、思考が戻ってくる感覚をミショーは「彼は思考の中にまた入る。思考が彼の中に〈また入る〉」と表現した。ここでミショーは、身体をなにか異質なもの、自己から切りはなされたものとしてとらえている。本書はひたすらに乖離の感覚について書かれているわけだが、それらはもっぱら薬物を用いた実体験や病人からの証言をもとにしたものだ。メスカリンやLSDの幻覚体験について記述したものは別段めずらしくはなく、たとえば精神病理学者の木村敏も、まさにミショーと酷似した自身の体験を著作に記している(木村敏『あいだ』「十二 我と汝の「あいだ」」)。それではなぜミショーがそのような幻覚体験を試みたかといえば「自己を本当に見つめるためだった」という。「精神の活動を瞬間、止めてみて、そのいかにも重要な、ほとんど遍在的な働きにおいて、実験的に自己を見つめるためだった」。我を失い、我に返る――我を失うことができるのは、また我に返ることができるのは、我を身体から追いやる、ひきはがすことができるからである。そう考えなければ、たとえば「腕が自己から奇妙に遠く離れているように見えること」があったり「あれこれの器官がなくなったとか位置を変えた」という感覚に苛まれる根拠について説明ができない。ミショーはこれを「虚偽ではあるが他人どもの〈真実〉より以上に虚偽だというわけではない」と考える。これは「“真理”とは、それなくしては特定種の生物が生きることができないかもしれないような“種類”の誤謬である」と言ったニーチェの言葉とも響きあう(ニーチェ『権力への意志』(断章493; ちくま学芸文庫版 *括弧内は原典では傍点)。

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ミショーのスケッチ。彼は数多くの絵画作品を残し、様々な芸術に大きな影響を与えている。

彼らは「〈一体感〉をこわされた人間」であり、他者と関係する「われ」は「近づきえない〈人格〉、近づきえない〈他人〉、近づきえない〈現実〉」でしかない。そういった「われ」から自分自身をひきはなし閉じこめておく、コミュニケーション不全がこれまで「分裂」と呼ばれてきた。それは木村の言うように「あいだ」で起こる病理であり、自己と他者のあいだだけでなく、自己と自己のあいだであっても、自己の差異としてあらわれてくる。

病後や事故のあと、苦痛が長く残るような時に、ある男が自分の体をすでに以前のように感じられなくなり、感じることをもはや望まないというようにすら見えることがある。(中略)まず、彼と彼のあいだに、苦痛がもたらす最初の乖離があったのだ。というのは身体的苦痛は、誰しもそれから逃れたいとひどく望むので、言ってみれば自己から抜け出したいという傾向を生むからだ。そして今度は新しい苦痛が彼に、自己に帰ること、自己をそのようなものとして受け容れることをためらわせる。空虚が感じられることに結びついた不安が彼の信頼感を取り除いてしまったというわけだ。

これは全体ではなく部分に依拠した思考でもある。身体が自己に属するものとしてでなくなにか独立したものとして“在る”かのように見える。身体が自分とは相容れない不気味なものとして浮かびあがり、自己を脅かすものとして再定義されてしまっている。以前の自己と現在の自己とが非連続であること、その差異を強く意識し、両者が同じ自分であると受容れることができない。しかし、たとえば木村やヴァイツゼッカー、そして西田幾多郎の言うように、自己が非連続の連続であることは自明の事実にほかならない。ブランケンブルクの言葉を借りるならば、この「自明性の喪失」こそ、心と身体が関係することの根拠となるものである。心と身体はつねにからみあい、互いに働きかけて変化しつづける。私たちの“生きている”自己とはそのようなものである。ミショーは自己を文学そのものとしてとらえた。あるいは、自己の営為それ自体が文学的であると見て、それを丹念に記述した。
ミショーは陶酔から霊感を得て文学を生みだしたのではなく――それはミショーが距離を置いたシュルレアリスムの文学である――むしろペソアと同じく、彼の試み自体が文学だと言うべきであろう。ミショーは自己の解体を通じて文学の解体を試みた。ばらばらになった自己の物語を書きながら、その物語によって自己がふたたび縫合されてゆくその連続を、私たちはミショーの文学作品として読むことができる。それがミショーの記述した自己にまつわる一連の著作なのである。


●付記

久々に読返したのだが、ミショーは自分にとってかなり重要な作家なのかもしれない。世界現代詩文庫は手にできたものの、ほかにもここに含まれていない詩集、散文をもっと読みたいと思ったし、豊富な学術的論考が付された英訳版ペーパーバックもとり寄せるべきだろうと考えている。ここまで病的に閉じた作家はなかなかお眼にかからないので、大事に読んでいきたいとこのたびあらためて思った。
フランス文学のやたら理屈っぽいところが私は好きで、多和田葉子堀江敏幸のようにつれづれなる描写ももちろん味があって好きだけれども、やはり言葉にならないものを論理的に言葉にあらわそうと苦心するフランスの現代作家は好ましい。ル・クレジオを読んで久々にフランス文学への熱が高まってきたので、プルーストやジッド、ロブ=グリエなどもまた読みなおしてみたいなあと思いはじめている。

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