ワザリング・ハイツ ~本館~

Something childish, but very natural.

ヴァージニア・ウルフ『燈台へ』を読む

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19歳の私をとらえ、その後を大きく左右した一作は、ヴァージニア・ウルフの『燈台へ』である。フランス文学と英文学のどちらの道に進むか悩んでいたおり、ふと手にとったこの小説を読んで、私は英文学の道へ進んだ。特別な理由があったわけではなく、もちろんその後ウルフを研究しようなどとは思わず、なんとなくそのとき私の心を強くゆさぶり、ふるわせた作品が英文学だった、というだけにすぎない。それでもこの作品は特別だった。それから一度も読みなおさずに、実に15年の時が経った。

イギリス文学を専門とする私にとって、ウルフは巨大な作家である。モダニズムフェミニズム、意識の流れといった、彼女を形容するのに使い古された言葉を並べ、なんとかとらえようと苦心すればするほど、むしろ自分からはなれてゆくような心地になる。それではどう読めばよいかと考えれば、あまりにも摑みどころがなく、たちまち途方に暮れてしまう。それはたとえば『自分だけの部屋』や『ジェイコブの部屋』、『波』といった作品を読んでもなお解消されることがなかった。かねてからウルフ作品のなかでは『燈台へ』が自分に最も合った小説だと思ってきたものの、長らくその理由がよくわからず、とにかくいつの間にかこんなに寝かせておく結果となってしまった。

ウルフの紹介に際してはしばしばジョージ・エリオットの名前を見るが、イギリス女性作家の知的伝統という意味では、メアリー・シェリー、エリオットと来て、次に来るのがウルフというのはごく自然な見方であろう。ヴィクトリア朝リアリズム小説の手法を敷衍し、内省的な文学世界の構築を試みた作家としては、女性であればウルフが第一人者だったと言える。エリオットの小説のように、手の込んだ精密機械のごとく緻密な計算のもとで組立てられているのに加え、音楽のように心地よく流れる言葉はそこここで美しい響きをなし、読む者の心をとらえる。そのようなウルフの特色を余すことなく味わえる作品は、やはり『燈台へ』なのである

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本作が非常に興味深い構成をもつことに、新潮文庫版の訳者、中村佐喜子の解説を読むまでは、恥ずかしながらまったく気がつかなかった。第一部が昼から夜更け、第二部が夜から早朝、第三部が朝から昼と、一定の時間の帯をもちながら、第一部から第三部までで間接的に時間がひとめぐりする構成になっている。それゆえ第一部で中断した燈台行きが、第三部にて決行され、まるで前日延期になった計画がすぐ翌日に実現したかのような印象を与える。数十年の時が、世の理が、一日のなかにすっかりたたみこまれている。ウルフは世界を“そういうふうに”とらえたのである――翻ってみるならば、一日のなかに数十年の豊かな生を見出すことができる、ということにほかならない。

特異な第二部を挟みながらも、日常の些末な出来事をひたすらに描写するばかりで、燈台行きも含め、これらの日常的情景がいったいなにを意図してここに書かれているのか、だれしも疑問に思うことだろう。しかしたとえば、ジェーン・オースティンやエリザベス・ギャスケルの作品に親しみのあるひとであれば、これが典型的なヴィクトリア朝の風景をうつしたものであることはすぐに気づくはずである。オックスフォード版の序文でディヴィッド・ブラッドショーは、ウルフがヴィクトリアニズムに向けた批判的な視線について言及している(xxi, xxiv)。『燈台へ』の人々は、一見すると家族団欒を愉しむ園遊会の人々のように見えなくもないが、彼らの様子が皮肉をもって描かれているのを見過ごすわけにはいかない。物語はすべてがラムジー夫人を中心に語られてゆくと言ってもよい。彼女はヴィクトリアニズムの象徴のごとく一座の中心に君臨し、その美しさもまた「家庭の天使」と呼ばれたイギリスの妻、ヴィクトリア朝の悪しきイデオロギーを思わせる姿である。

近代の暁を思わせるリリー・ブリスコウが――彼女は対照的にロシアン・フォルマリズムを思わせる画家である――そのような夫人を賞讃するのも非常に興味深い。夫人とリリーの関係を、ウルフと母親の関係から読む分析も多いようであるが、両者の関係はもっとずっと深いところに根差している。ここには古きよき時代からこびりついた、いわゆるブラッドショーの指摘するdampnessの痕跡と、移ろう時が新しい時代を迎えようとする、まさに時代が芽吹く前の変化の瞬間がはっきりと示されている。

単調で退屈な団欒は、夫人の死と戦争によって美化され、第二部や第三部では、まるですべてが穏やかで美しい時間であったかのように語られる。ふたたび島に戻った以前と変わらぬ家族の風景は、「家庭の天使」なしで家族の団欒をとり戻す物語でもなければ、むろんヴィクトリアニズムの復権を象徴するものでもない。カーマイケルが「人生のあらゆる興味を失った」と言う時が訪れたにもかかわらず、あらゆるものはそのままそこにあったかのようにリリーは感じる。「彼女は創作しているわけではなかった。昔見たことや、胸の中に積みかさなっていることを、たゞ平らにのばそうと試みているだけである」。だからこそ彼女は、昔と同じ場所に立ち、昔と同じ絵に取組み、昔と同じように描くことができない、とあきらめかけていた。しかしこの物語はリリーが絵を描きあげるところで幕を下ろすのである。

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ウルフの特徴的な著作である『波』と『私だけの部屋』。

すでに昔からあったものを「平らにのばそうと試み」ること、すでにできあがった価値をふたたびたどりなおすことで、リリーは自分の新しい絵を描きあげる。彼女はなにか新たな表現を試みたわけではなかった。リリーはまさにウルフと同じく、すでにあるものをもとに、現在を組立てなおしたにすぎない。しかしそれによって現実がいかに新しく見えてくるかを示したのだとも言える。

この物語は実に多くの内的独白で占められており、それは実際にだれかがだれかに向かって語った言葉をはるかに上回る。語られなかった言葉が、語られた言葉よりも多く、そして印象深く響くのはなにも特別なことではなく、私たちの日常においてはごく自然なことであろう。しかしながらその事実に自覚的であるひとは少ない。

リリーが話したいのは、一つのことでなくてあらゆることだった。その思索を打ち割ってばらばらにしそうな、断片的な言葉では、何も話せない。「生について、死について。ラムジイ夫人について」――いや、誰かに何かを話すなんて、できることではない、と彼女は考える。その場であせってきっと的をはずす。言葉がたゞ周囲をうろつくだけで、肝心な事柄の程度を下げてしまう。(中略)だって、この肉体に感じてくるものを、つまりあすこのあの空虚さを、どう言葉に表したらいゝだろうか?(「Ⅲ 燈台へ」)

私たちの生活は語られなかった言葉によってつくられている。「意識の流れ」と呼ばれる手法は、異化と同じく、小説の技法というよりもむしろ物事に対する見方を変えることにほかならない。『燈台へ』を占める言葉はほとんどが語られなかった言葉であり、だれかに届きそこねた言葉であり、心に埋もれた言葉である。日常の裏側にこのような豊かな想いと言葉の遺産が隠されていることを、私たちはいつも忘れている――ウルフの文学の美しさはここにこそある。そして長い時を隔てながらもリリーが同じ絵に取組み、最終的に完成にまで至ったのは、彼女がウルフと同じく隠れた言葉を自身の胸の内に見出したからである。リリーがカンバスにうつしとろうとしたもの、彼女の見ていた情景は、十年前も十年後もまったく変わってはいなかった。
第二部を隔てると、なにも変わらないようで、すべてが変わったかのようにも見える。それはかつてとちがった心で現在と相対するための「眼」を、時の流れが人々に授けたからにほかならない。それゆえ、戦争が起こり、夫人が亡くなったあと、なにかが変わったのか、あるいは変わっていないのかを問いつづける営みが、この物語の肝要となっている。語られなかった言葉を語り、眼の前の時から新たな時代を描くため、リリーは同じ場所でふたたび筆をとる。「でもこんな絵の場合、おそらく『永遠に残る』と云うのは、絵そのものについてではなく、それを試みたということについてでしょうね」と彼女は考える。すべては消えてゆくが、「たゞし言葉は別、絵は別」だと確信している。

とたんに、かなたの何かに呼び戻されるように、彼女は自分のカンヴァスの方をふり向いた。そこにはあった、――自分の絵が。そう、緑と青の色彩、縦横に走る線、何かしらを現わそうとするその試み。あれは屋根部屋へかけられるかもしれない、と彼女は思う。あれは棄てられてしまうかもしれない。でも、それが何んだと云うの? とつぶやいて、彼女はふたゝび絵筆をとりあげた。石段を見る、そこは空っぽだ。自分のカンヴァスを見る、それは漠然としている。不意にわいた確信をもって、リリーは、一瞬はっきりそれを見たかのように、一本の線を、その真中に描いた。できたわ、これで終わったわ。極度の疲労のうちに絵筆を置きながら、彼女は思った、これでいゝんだ、私は、私の幻影(ヴィジョン)をとらえたわ*。(「Ⅲ 燈台へ」*括弧内は原典ではルビ


●付記

岩波文庫から新潮文庫に変えたことが、この作品を再読し、深く味わえた理由であると、あえてここに書いておきたい。19歳の私は岩波文庫版を読んだわけだが、よく読み通せたものだ、と今では思う・・・・・・いや、むしろ今はこちらの方が手に入れやすいこともあり、なんだかなあと思ってしまうところがある。新潮文庫版は中村さんの解説も本当によく書かれており、物語をあらためるうえでとても役に立った。これから読むひとにはぜひこちらを手にとっていただきたい。

なにはともあれ、いつもつねに頭の片隅にあったこの作品をついに読みなおすことができて、私としては大満足である。J・L・ゴダール『時間の闇の中で』(Dans le noir du temps / In the Darkness of Time)において『波』の末尾の一節を引用しており、それを観たときからウルフをなんとか自分のなかに位置づけたいと切望してきた。ウルフの文学はたしかに読み継がれるべきものである。しかし、形式に囚われない文学をウルフはうちだしたはずなのに、「形式に囚われない」という枠に囚われているのは皮肉な話である。様々な文学区分というのは便宜上必要であるが、それによって文学の本質が見えにくくなってしまうのもまた考えものである。

<引用文献>
Woolf, Virginia. To the Lighthouse. NY: Oxford, 2008.
『燈台へ』中村佐喜子訳、新潮文庫、1980年