ワザリング・ハイツ ~本館~

Something childish, but very natural.

ボリス・パステルナーク『晴れようとき』を読む

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薔薇の息遣い はっかの呼吸
牧草地 すげ 草刈り
遠い雷鳴のとどろきを
わたしは詩の中にもたらしたい(「すべてにおいて・・・・・・」)

パステルナークを読もうと思ったのは何年も前のことで、いつか読もういつか読もうと思い、いったい何年経ってしまったことか。パステルナークとの出逢い自体はもっと前にさかのぼり、十代の頃、映画を浴びるように観ていた時期に『ドクトル・ジバゴ』の名前を眼にしたのが、おそらく最初だったのではないかと思う。しかしパステルナークがロシアの国民的詩人であることを知るのは、本格的に文学をはじめた大学時代のことであった。

ノーベル文学賞を受賞した際の諸々の出来事は、私たちが思う以上の影響を詩人にもたらしたにちがいない。『わが妹人生』にある、鋭い刃で世界を切りだしてゆく筆致とは異なり、『晴れようとき』では静かに、ただ静かに自然を語りつづける言葉が並ぶ。詩人の境涯やロシアの情況、あらゆる近景を遠ざけるような、水をうった静けさが詩集全体にゆき渡っている。

パステルナークと親交のあった――というだけでは足りない、魂の交わりがあった――マリーナ・ツヴェターエワの詩評が、工藤正広訳『パステルナーク詩集』(双書・20世紀の詩人)には収録されている。ツヴェターエワもまた、パステルナークの描く日常と、そこに潜む聞こえない音〈静けさ〉に耳をすませる。

パステルナークは――樹木がその葉の明瞭さによってではなくその根(秘密)によって生きているように――そのことばの中に生きているのではないのだ。この詩集ぜんたいの下に――或るおおきな、クレムリンの道路の下に――静けさがある。(「光の驟雨」)

ただ自然をうつしとることで人間の暮らしをそのままうつしとってゆく彼の詩を、ツヴェターエワは大きな驚きをもって迎入れる。彼女の言う通り、パステルナークの描くロシアの片田舎の日常風景に、人間や動物はほとんど顔を見せない。彼らが不在であることによる〈静けさ〉は、しかし不気味な様相を見せるわけではなく、むしろそこで暮らす人々の生をいきいきと頁によみがえらせる。

森の中の
小川のせせらぎだけが
ひっそりと ときには響きたかく
この席ごとについて繰り返し語っている

 

森の深い谷間に鳴り響かせ
伐採地にふれまわりながら
ほとんど人間の言葉で
小川は何かを語ろうとする(「静けさ」)

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 「解説」で工藤正広が書いているように、「普通の直喩では「木の葉のように」と書く(認識する)ところを、パステルナークなら、「木の葉になって」さやぐ、というふうに造格を用いて書く」。造格(具格)とは「(物や道具)を使って」の意にあたる格であるが、パステルナークが詩のなかで造格を用いるとき、彼は認識対象を通して世界をとらえ返しているかのようである。詩人は実際に「木の葉になって」世界を見る――「人間が木の葉のようにさやぐ状態が、さらに転移されて、人間がまさに木の葉そのものに化してしまった状態が現出する」がため、「自然と人間が交互に交換可能な存在」となる。だからこそひとが不在の、自然の風景に沈む日常風景を描くだけで、そこからひとの生活の息吹が立ちあがってくるのである。

家の中を幽霊がさまよい歩いている
一日中頭上で足音がする
屋根裏部屋で影がちらつく
家霊がさまよい歩いているのだ

 

どこへでもぶらつき
何にでもちょっかいを出し
ガウンを着てベッドに忍びより
食卓からテーブルクロスを剝ぎとる

 

玄関で足を拭いもせず
吹きぬける風の中で渦巻きになって駆け込み
踊り子と一緒にカーテンもろとも
天井まで舞い上がる

 

そもそもこの無作法な悪戯者は何者
この幽霊 風に生き写しのこの分身は
それは余所からやって来た下宿人
わたしたちと一緒の夏の別荘滞在者(「七月」)

家を訪れる夏の涼しげな風の様子が、その家で暮らす人々の穏やかな歓びを伝える、美しい詩ではないか。夏風を感じながら和やかに過ごす人々を克明に記す必要などないのだ。ただ家の中を飛びまわる風の様子に眼をやれば、そこで過ごす人々の表情や言葉は自然と聞こえてくる。ツヴェターエワは「彼[パステルナーク]における日常とは(中略)殆ど常に、運動の中にある」と書いたが、これは「七月」に見られるようなパステルナーク独特の手法が、初期から一貫していたことを裏づけてくれるものでもあろう。見えないものに眼を凝らし、聞こえない音に耳をすませると、私たちの日常は色を失い遠ざかるどころか、むしろなつかしい思い出の風景そのものとして、普遍的な力を獲得して美しく描きだされるのである。

夜は眠りにひたるまもなく
空が明るんでくる頃ソファから飛び起きる
この世界をまるごとページにおくこと
詩の連と連の境目に自分をおさめきること

 

切株や くね曲がる倒木
川岸の灌木が彫刻されたのと同じように
この紙の上に 屋根屋根の海を
雪に埋もれたこのまるごとの世界 まるごとの都市を建てること(「吹雪のあとで」)

 

●付記

パステルナークの『ドクトル・ジバゴ』がどのくらい重大な〈出来事〉であったのかを説く力は私にはない。しかし彼がこの大作小説を書かなければならなかった理由についてはとても興味がある。パステルナークは詩人である。詩人が小説を書くときには、やはりそこにある大きな心の変転があるのであり、それがなんであったかが今の私にはまだわからない。大きな大きな宿題である。

ここのところ、ヨーロッパの東を目指して詩を読んでいるような気がする。それが自分にどんな影響をもたらすのかはまだわからないが、つねにアメリカやイギリスといった大国ばかりに眼を向ける日本の傾きから、少し外に出てみたい気持が強くある。まさに大国の言語である英語を使って――矛盾的な試みではあるけれども――ヨーロッパの東に分入り、もう少し広く腕を広げてヨーロッパというものを眺めてみたいと思いはじめた。東欧や北欧の文学作品は、驚くほど日本の翻訳が少ない。英語が読めれば、そこにアクセスすることができるため、今の私であればなんとか近づくことができるのだ。